最近読んでいる政治学者・中島岳志さんの『リベラル保守宣言』という本の中に、とても膝を打つような表現が書かれてありました。

最近ずっとモヤモヤと考えていたことを、見事に言語化してもらったような気分です。

以下で少し引用してみます。 

賢者は、理性がパーフェクトな存在ではないことを理性的に把握し、知性には一定の限界があることを知的に認識します。保守思想は理性を否定するのではありません。真に知的な人間は、理知的に思考すればするほど、その思考には決定的な限界があることを理知的に掌握します。知性ある人間は、理性の乱用から距離をとり、 傲慢 を遠ざけようとします。保守思想が疑っているのは理性そのものではなく、理性の 無謬 性 なのです。


この話、人体で考えると、とってもわかりやすいはずです。

たとえば、盲腸やジャンクDNAなど、従来の科学的な見地からはまったく無意味なもので不要なものだから、害悪をもたらす場合には、それを排除してしまおうというのが従来の定説だった。

でも、それらにも何かしらの役割があることも、また最新の科学では発見されるようになってきたわけですよね。

だとすれば「意味がないのだから排除しよう」というような判断が、いかに愚かな判断なのかはすぐにわかるはずです。

人間の人体だとそれが理解できても、その人間が複数集まって構成される社会だとその考え方がなかなか受け入れられないのは、本当に不思議。

社会だって人体みたいなものなのですから。

無意味そうに現代の基準から見えるものであっても、現代でも残っているものというのは、排除するとしても、本当は丁寧に観察するべき対象なんです。

何の役にも立っていなさそうな、なんだったら邪魔な存在が、実は世界のすべてを支えていて、連鎖的に崩壊していく第一歩になるのかもしれないのだから。ジェンガの何気ない一本を抜くときと同じように。

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でも、リベラル的な思想を持っているひとや活動家の人々というのは、必ず決まってこう言います。

「私には全部わかっている。」と。

この点、以前もご紹介したことがある内田樹さんの『ためらいの倫理学』の中に書かれてあった宮台真司さんを批判していた部分が非常に印象的だったので、以下で少し引用してみたいと思います。 

宮台は「分かっている人」なのである。     それが彼に共感できなかった理由だったのである。    宮台は「私には全部分かっている」という実に頼もしい断定をしてくれる。「事態がこうなることは私には前から分かっていたのです。いまごろ騒いでいるのは頭の悪いやつだけですよ」。冷戦の終結も、バブルの崩壊も、性道徳の変化も、家庭の機能不全も、教育システムの荒廃も……宮台にとってはすべて読み込み済みの出来事なのである。それを見て、秩序の崩壊だアノミーだ末世だとあわて騒ぐのは時計の針を逆に回そうとしている愚物だけなのである。

宮台は「知っている」ということで自らの知的威信を基礎づけている。「知っている」ということが知的人間の基本的な語り口であるとたぶん思っている。


さて、いかがでしょうか。僕はここで、宮台真司さん個人のことを批判したいわけでは決してありません。この書籍が出版された2001年当時の様子なんかも、まったく理解していない。

でも、似たような状況や構造というのは、今でも本当によく見かけますよね。

現代も気候変動が最終的にはどうなるのかなんて誰にもわからないのに、気候変動の未来のことをすべてわかっているようなフリをして出てくる有識者のような人々は後をたたないわけです。

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じゃあ具体的にはどうすればいいのか。内田樹さんは、以下のように続けます。 

ところが、私はそういうふうに考えることができない。 「私には分からない」というのが、知性の基本的な構えであると私は思っているからである。

「私には分からない」「だから分かりたい」「だから調べる、考える」「なんだか分かったような気になった」「でも、なんだかますます分からなくなってきたような気もする……」と 螺旋 状態にぐるぐる回っているばかりで、どうにもあまりぱっとしないというのが知性のいちばん誠実な様態ではないかと私は思っているのである。


僕もこの意見に非常に同意です。

ただ一方で「わからない」という態度は現代においては、ひどく嫌われもするのです。

それは、なぜか?

その意見を聴いている人々が、どこに向かえばいいのかわからなくなってしまうからです。

つまり、空気やノリ、そこから生まれる熱狂を、社会は常に欲しているんですよね。

そして、現代という社会は非常に特殊な社会であって、商品の品質はすべてが頭打ちをし、完全にコモデティティ化してしまっていて、素敵な企業理念なんかも巷には溢れ、哲学や思想のような価値観もすぐにコピーされてしまう。

コピーされると言うよりも、いくつかの簡単な質問に答えると、誰からも文句のつけようのない理想的で中立的なコピーをつくってもらえるというほうが、これからは正しいのかもしれません。

そうするともう、熱狂や空気、ノリをつくることに終止するしかなくなることでしょう。

そんな群集心理の行方を理解しているひとたちは、これこそが今後のビジネスの行方だということをはっきりと理解している。

だから「断言・反覆・感染」を繰り返す。

それは今に始まったことではなくて、古典的名著であるギュスターヴ・ル・ボン『群集心理』に書かれているような話です。

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「でも、その反知性主義的な振る舞いはいかがなものか」というのが、僕がずっと抱き続けている疑問なんです。

それよりも、もっともっと自分の内側の感覚、具体的には、自分の身体性に耳を傾けてみたほうがよくないですかと言いたいんですよね。

そうすると、必ず「わからない」から始まるしかないんです。大半は意識ではなく、無意識で駆動しているものですから。

簡単に空気に流されるのは、そんな自らの身体性を無視するから起こるのであって、それが最近の僕の一貫した主張であり提案なんです。

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ただし、繰り返しますが、これからの世の中では、人様に財布を開いてもらうためには、もう「空気」をつくるしかなくなった。

もう、良い商品を頑張ってつくってみたり、いい感じの思想や哲学を普及してみようとしてみたりしたところで、そこには何の差別化も生まれてこない。

この資本主義下において生き残るためには、もう空気やノリをつくることしか仕方ないラインまできてしまったわけです。

先日、Voicyの中で為末大さんも語っていましたが、そんな空気をつくるのが一番うまいのは「お笑い芸人さん」であり、日本人のビジネスマンはみんなお笑い芸人化していくのだと思います。

そして、消費者は全員、観客席にいるお客さんのようになっていく。

インターネット上で局所的に生まれるミーム系文化なんかも、まさにその構造が局所的な集団内で再現されるから、強烈なノリが生まれるわけですよね。

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ただ、少なくとも僕自身は、まわりにそのようなタイプの人々が大勢存在しているような状況は望みません。

強い先導者が主張する「わかっている」という態度、その「断言・反覆・感染」からうまれた空気に流された大衆というのが、最終的には何をするのか、それは火を見るより明らかだからです。

それは、歴史を振り返ればすぐにわかること。

具体的には、フランス革命時に人々が何をしてきたのか。そしてその主導者だったロベスピエールが最終的にはどうなったのか。結局、自らの身を滅ぼしてしまうわけです。

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だから、僕はすべてがコモディティ化して、もし何かしらの「空気」をつくらなければ自らのビジネスが成立せず、生きていけない世の中になるのであれば、決して安易にその空気には流されず、自らの身体性のほうを頼りにするひとたちが集まる「空気」や「ノリ」をつくりたい。

その人達のために役に立つ空間や考え方、サービスなんかを淡々と提供していきたい。

逆説的ですが、本当に強くそう思います。

一番実現困難な道かもしれませんが、決して不可能ではないと思っています。

具体的には、空気を読まなくてもお互いの違いを常に認め合いながら、脅かすことなく誰もが安心して居続けられる場所。

自らの外部に強烈な熱狂や刺激が存在しなくとも、それぞれがそれぞれの身体性から立ち現れてくる感覚や体験において、しっかりとそれぞれに満たされていること。

そして、たとえひとりだけ笑っていなくても、空気やノリについていけてなくても、周囲はそれを絶対に否定したり批判したりしないこと。

「私には、わからない。だから知りたい」という態度を一番尊重できるひとたちと一緒に、小さくとも健やかな共同体をつくっていきたい。

そんなことを考える今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。