人はどのような形で、自らの存在意義を確かめようとするのか。
それは「自分という存在がいなくなったら困る」と他者に思われることを望む、という場合が多いように思います。
言い換えると、承認欲求を何によって追い求めるのか。
極端な話、「私がいないと、みんなが困る。だから私は生きなければならない」というような形で、自分の存在価値を確かめようとしがち、ですよね。
たとえばそれは多くの成人男性や成人女性にとって、自らの子どもや家族の存在が、まさにそのようなあり方を規定してくれるかけがえのない存在だと思います。
そして、家族でなくとも、自分で創業した会社や、地域コミュニティのような町おこし、ほかにもありとあらゆる物事における「頼りにされている感」のようなものは、自分がこの世に存在していていいんだと思わせてくれるもの。
それが人間の根源的な喜びの一つであるからこそ、独身のひとが、犬や猫など愛玩動物を飼ってでも「この子には自分がいなければいけないんだ」と思いたくなるような挙動に無意識に出てしまうのだと思うんですよね。
それは単純に良いことだと思います。ありとあらゆる生命に対して講義の他者貢献につながることだから。
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でも一方で、そのような形式における自分の存在意義みたいなものを肯定する文脈ばかりを求め続けてしまうと、質の悪い執着にも変貌していってしまうのかもしれません。
他者貢献や、そこから自然と立ちあらわれてくる貢献感を否定しているわけではなく、以下のような考え方もできるという意味で、以前もご紹介したことのある内田樹さんの『村上春樹にご用心』という本から少し今日の話に関連する部分を引用してみたいと思います。
よく仕事場で、「あの人が休んじゃうと仕事にならない」ということがありますよね。そういうふうに、ひとりで仕事を抱え込んでしまう人は「私がいないとみんなが困る」ということで、自分の存在理由を確証しようとします。
でも、これって質の悪い執着ですよね。自分の存在の確かさを、「自分が不在の時に他者が感じる落感」で計量しようとするのは人間的誘惑ですけれど、それはなんだか間違っているように私は思います。
「いなくなったら寂しい」で自己承認欲求を確立させようとするのを乗り越えた先にある世界っていうのも、きっと間違いなく存在すると思っていて。
それは「いなくなったら、寂しい」と思われることを望むな!と言っているわけではなくて、それ自体を願うことは人間として当然であっても、その状態を自分の存在の確からしさを確かめたり計量するために用い過ぎるな、ってことですよね。
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で、内田さんは、ここからさらに「霊的成長」の話につなげていきます。そして、そんな「霊的成長」に関するお話を、村上春樹さんが小説の中で書き続けているのだと。
ここが非常に興味深い観点だなあと思うので、再び本書から引用してみたいと思います。
霊的成長というものがあるとしたら、それは「私がいなくても、みんな大丈夫。だって、もう『つないで』おいたから」というかたちをとるんじゃないかと思います。
村上春樹の小説にはときどき「配電盤」が出てきます。
(中略)
これはやはり「霊的生活」の比喩じゃないかなと思います。村上春樹って、「そういう話」ばかりしている人ですからね。
霊的成長というのは、配電盤としての機能を全うするということじゃないか、と。私はそんなふうに思っています。私がいなくなっても、誰も困らないようにきちんと「つないで」おいたおかげで、回りの人たちが、私がいなくなった翌日からも私がいるときと同じように愉快に暮らせるように配慮すること。そういう人に私はなりたいと思っています。
これは、本当になるほどなあと思いました。とても強く膝を打つような話。
僕は最近、村上春樹さんの長編小説『1Q84』も無事に聴き終えることができまして、今は『ねじまき鳥クロニクル』のオーディオブックを聴きはじめているのですが、この霊的成長の話は言われてみると、本当に強くそう思います。
僕らがそこに感動するように仕向けられている物語が本当に多いなあと。
これを違う角度から眺めてみると、霊的成長というのは、長編小説というフォーマットの中で、一見するとわかりにくメタファーを経由することによってしか僕らには伝わらないものなのかもしれない。
これを描けるのは、ビジネス書などではほとんど不可能で、人文書やドキュメンタリーでもむずかしい。やっぱり小説というフォーマットだけなんだろうなあと本当に強く思います。(その理由は、まだうまく言語化できないですが)
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ここで、霊的成長って言葉を使いすぎると霊的っていう部分から、どこかスピリチュアルじみた感覚として捉えられてしまうかもしれません。
しかし、「つないでおいたから」という感覚が、人間のある種の成長につながるという感覚は、違和感なく受け入れてくれるひとは多いと思います。
繰り返しになりますが、「いないと困る」という存在理由や承認欲求、その誘惑に打ち勝つことが、霊的成長への第一歩。
もちろん、そうしたところで、それは決して誰かに褒められることでもないし、社会的にチヤホヤされることでもないし、別に楽しいことでもないかもしれない。
なんなら、ひどく退屈で、不平等感を強く感じるようなことでもあるはずです。
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でもじゃあ、なぜそんなことをする必要があるのかといえば、そこに意識を向けられうようになることで、僕らはありとあらゆる先人たちが同様に「つないでおいたから」という場や空間がこの世には存在していて、世の中にはそんな「つながり」が無限にあるとハッとすることができるからなんだと思うのです。
つまりそこに「つないでもらっていた」という隠されていた「贈与」を遡行的に発見することができる。
霊的成長について考えれば考えるほど、先人たちのそんな「大人な振る舞い」のようなものが、手に取るようにダイレクトに伝わってくるようになるんですよね。
今を生きている自分たちは、そのような数々の霊的成長の上に存在させてもらっていて支えられているんだと気づく。これが本当になんというか、とっても豊かなことだなあと僕は思います。
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過去に僕は何度か「打ち上げみたいな場に、自分はいないほうがいい、そのほうが嬉しい」という話を様々な場面で語ってきました。きっとこれも、どこかで直感的にそのようなあり方、具体的には霊的成長を願っていたからなのだと思います。
自分が宴会の輪の中心にいる必要はない、自分が中心にいることの喜びっていうのはまやかしであって、その快感は執着にほかならないんだろうなあと。
当時の自分は、内田さんのように上手に言語化はできていなかったですし、いまこうやって言語化してもらっているから、何か都合よくそう思っているだけかもしれないけれど、まさにこの「つないでおいたから」の感覚に他ならないんだろうなあと思っています。
僕が人生で本当に望んでいることは、「つなげておいたから、あとは僕のいないところでも、自由にそれぞれの本領を発揮してくださいね!安心して、大丈夫。あなたならできる」ぐらいの感覚でしかない。
このWasei Salonという空間もまさに、その「つないでおいたから」を大切にしている気がしています。というか、それを日々考えながら運営し続けている。
具体的には、どうすれば初対面同士のひとであっても、ここに集まってきてくれた方々が、お互いに疑心暗鬼にならずに、安心して交流をすることができるのか。
そして、お互いを脅かすこともなく、共に価値や喜びみたいなものを分け合うことができるのか、というような視点。もちろんそこに僕自身が同席しなくても、です。
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で、更さらにここから踏み込んでしまうと、この「つなげておいたから」の究極の形、そんな僕らの世代で担うべきつながりは「ブロックチェーン的なつながり」なんじゃないかって思うんです。
だって本当に、文字通りブロックチェーン的なものって、個々人がコミュニティとして「つながっている」という意味でしょう?
さらに、そこから副次的に生まれてくる人間同士や死者との間における信頼や、人情味の変化なんかも訪れる。
僕がトークンエコノミーのような世界観が訪れて欲しいと強く願う理由は、まさにここにあるんだろうなあと。
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インターネットによって、人々がどこにいてもコミュニケーションできる形でつながり、さらにブロックチェーンやトークンという形で、ひとりひとりが経済的価値や意味などでもつながり、孤立した中でも、不安にならずに済む世界がきっとやってくる。
一方で、何かより大きなものに束縛されて、苦しまなくて済む世界にもなっていくことは間違いないと思います。ネガティブな意味での国家や会社や世間的なしがらみから、本当の意味で自由になれること。
そうやって悪意に束縛されずに「つなげる」ことができる世界が目前に迫っていると僕は思っています。
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最後に再び、本書の中から別文脈で「霊的成長」について語られているところから引用して終えたいと思います。
霊性というのは、「つながっている感覚」だというのは私の基本的な理解です。
時間的にも空間的にもどこまでも広がっているネットワークの中に自分がいて、自分がいることで「何か」と「何か」がつながっている。自分がいなくなってしまうと、その「つながり」が途絶えてしまうかもしれないから、生きている間にがんばって、その「つながり」を自分抜きでも機能するようにしておく、というのが「霊的成長」ということではないかと思います。
昨日書いた「出産祝い」の話なんかもまさにそうですが、「つないでおいたから大丈夫、つながる基盤をすでにつくっておいたから、安心して暮らしてね。大切な友人やかけがえのない家族をつくっていってね」と。大切なのは、そんな「祈り」みたいなものだと思います。
その願いみたいなものを、一体どれぐらい具体的に社会やコミュニティの中に実装していくことができるのか、それがきっと僕らの世代に問われていること。
少なくとも、僕はそんなふうに感じています。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。