「家族」というものは本当に不思議です。

「居場所」の最小単位としてみんなが追い求めるのに、その内実は大抵のひとにとっては、ものごく居心地の悪いもの。

そのなかでは多くの問題が常に発生し続け、お互いを忌み嫌い合い、邪魔なものとして扱うくせに、なくなると非常に強く悲しむ。

そして、それがわかっていてもなお、常日頃から大切にするわけではない。結果として、浮気をしたり、離婚をしたりして、それを自らの手で破壊する。

なぜこんなにも、アンビバレントな存在、矛盾する共同体を僕らが必死で追い求めてしまう定めにあるのか。

僕には、それが不思議でたまらない。

過去に「家族」がテーマとして描かれている文学作品や映画を多数観てきて、本当に心の底からずっとそれが不思議だなあと思ってこれまで生きてきました。

でも今思うのは、このアンビバレントな共同体だからこそ、もしかしたら家族は「家族」なのかもしれないと思います。言い換えると、ここに家族の「秘密」があるのかもしれない。

今日はそんなお話を少しだけ。

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今日の問いのようなことをモヤモヤと考えているときに読んでいた、過去に何度もご紹介してきた内田樹さんの『村上春樹にご用心』という本の中に、「家族」に関する記述がありました。

内田さんは、「ふるさとは遠きにありて思ふもの    そして悲しくうたふもの」という昔の歌をご紹介しながら、「一緒に暮らしてニコニコしている家族」というようなものは「そのもの」としては存在しないのだ、と語ります。

家族は、「そのようなものが、かつて存在した」という仕方において、回想の中にだけ存在すると書かれていたんですよね。

そして、家庭というのはあくまで「暫定的な制度」であり、つかのまに「移ろい消えてゆくもの」である。そして、それゆえにこそ私たちを統合する力を持ち、制度として機能しているんだ、と。

「家族」のアンビバレントな意味性みたいなものずっと考えてきた自分としては、このあたりのお話は、なんだかものすごく引き込まれるお話でした。

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そして、本書は村上春樹さんに言及している本なので、ここから村上春樹さんの話にもつながっていきます。

本書の中では、村上春樹さんのエッセイが引用されていて、孫引きみたいな形になってしまいますが、少し村上春樹さんの言葉自体を、ここで引用してみたいと思います。

以下の文章は、「親と子が何でも話せる楽しい家庭」という標語を街角で見かけて、考え込んでしまったという村上春樹さんのエッセイの一部になります。

親と子が何でも話せる家庭というのは本当に楽しい家庭なんだろうか?と僕はその標語の前に立って、根本的に考えこんでしまう。

こういう標語は時として根本的な思考の確認を迫ることがある。僕は思うのだけれど、家庭というのはこれはあくまで暫定的な制度である。それは絶対的なものでもないし、確定的なものでもない。はっきり言えば、それは通りすぎていくものである。不断に変化し移りゆくものである。


これを受けて内田さんは、この村上春樹さんの考え方に全面的に同意するとしたうえで、「安定的で恒久的なものは、人間たちを統合することができないんだ」と言います。

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このあたりは、本当にわかりにくい話だと思うので、丁寧に説明していきますね。

一般的に多くの人は、統合軸のようなものは、かっちり安定したものの方がいいと勘違いしている場合が多いのだけれども、僕らが何かにはげしく惹き付けられ、それに固着するのは、それが移ろい、壊れ、消えてゆくものだからだと、内田さんは語るのです。

本書の中では「花鳥風月」の話題が挙げられましたが、最近であれば「桜」なんて、まさにその最たる物でしたよね。

もし桜が恒久的に咲き続けているものだとしたら、ここまで心惹かれない。わざわざ花見をするために、人々は集まらない。僕らは、数日で散りゆく定めにあると知っているから、桜の様子に感動するわけです。

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そして、ここからさらに核心に迫ってくる部分なのですが、それゆえに家族が家族として成立するのは、そこに集うメンバーたちがいずれ必ず消え去ることが確実だからなのではないか、と。

そういうテンポラリーな共同体であるからこそ、その家族における印象深いすべての出来事は、「ああ、あのときにはまだ◯◯がいたんだ」というメンバーの欠落とともに回想されることになるんだ、と。

これは素晴らしい表現で本当にそのとおりだろうなあと思います。

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つまり、「家族」というものは、「ないものを探し」のようなものにすぎなんだろうなあと、僕は思うのです。

僕らが理想として思い描くような家族、小学生の道徳の教科書に出てくるような典型的な家族像みたいなものは、本当の意味では、どこにも存在していない。

どれだけそれが理想的で、自分たちの頭のなかにそれが存在しているからといって、そんな昔のおとぎ話や児童文学の物語の中に出てくる、めでたしめでたしの家族なんて、そもそもどこにもいないんです。描けば描くほど、ドンドン白々しいものとなってしまう。

そして、それを求めすぎるがゆえに自分自身でなんとか必死で追い求めるんだけれども、そうすると自らの感情を殺して、何かのロールプレイをするように演じることになる。

これは逆に言うと、近年SNSやYouTubeのようなものが登場してきて、「理想的なファミリー像」のようなアカウントやチャンネルが流行っているのも、まさにこのロールプレイが、フォロワーや視聴者という第三者の視点、そんなある種の「監視」があって初めて成立するものでもあるのだろうなと思います。

生活と演技が完全に逆転して、カメラを通して、存在しているように視聴者にも見えているだけ。

この点、内田さんは本書の中で、この世に存在するのは、「そばにくっついていて、うんざりしている家族」と「遠く離れていて、悲しみとともに歌われる家族」の二種類だけだと語られていましたが、本当にそう思いますし、この表現に対して、僕はものすごくハッとしてしまいました。

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僕らの思考や意識が、そういう家族がどこかにあると想定し、無邪気に想像することができるというだけ。

それはユニコーンのような空想上の生き物やピンクのゾウみたいなあり得ない存在を、脳内には軽々と描けてしまうのと同じこと。

ただ、そんなものはどれだけ脳内にリアルに描写できたところで、幻想に過ぎないことは僕らは理解していますよね。

家族も、そんなある種のユートピア思想に近いわけですよね。

でもそれは決して間違っていることではない、また、絶望することでもない。むしろそれが家族の本質であり「秘密」であるんだと僕は思います。

ここが本当に、ものすごく大事な視点だと感じるんですよね。

そんなうんざりするものであっても、またいつか回顧される対象になり、ありがたく感じられる回顧される対象として人間の中でうまく”捏造”されていくわけだから。

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にも関わらず、そこで無理やり、いま現在この瞬間において捏造された家族をつくろうとすると、途端に失敗をするに決まっている。

それは極端な左翼運動、ユートピア思想や社会主義思想のようなものが、ことごとくすべて失敗したようにです。国家だって極端な話、「大きな家族」のようなものですからね。

その理想を必死に抱き、そして健気に実現しようとした挙げ句、監視国家や独裁国家になっていくわけです。

そうやって、無理やりに実現しようと思えば、そこに歪みが生まれて「裏切りと粛清」が無限に連鎖していくだけ。それは家族内であっても似たようなことは一瞬にして起こり得るはずです。

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本来は「そのようなものがかつて存在した、それはまちがいなくそこにあったんだ」とその記憶を当人同士の中で捏造し共有するものであり、こっちが本物。

これが人間の本当に不思議でおもしろいところですよね。そして今日一番強く強調したいポイントです。

これは、東浩紀さんの「訂正可能性の哲学」なんかにもつながると思うし、村上春樹さんの小説の根幹部分にも通じてくる話だと僕は思っています。

これは、たとえば、「富士山」を遠くから眺めて、「なんて美しいんだ」と感動し、それと同化したいと強く願い、実際に山の麓から山自体に登り始めてみることにも似ている。

あの美しい景色として確かに存在した「富士山」は、その登山の道中には一切存在せず、苦しい山登りの体験だけがそこにあるというような。

旅の記憶なんかも、まさにそうですよね。

旅をする前に思い描いていた旅というのは、旅の最中には一切存在しなくて、その旅が回顧されるときにしか立ちあらわれてきてはくれない。

そして往々にしてそれは、後から盛られて捏造された記憶なんだけれども、むしろそっちが僕らにとっては「本物」で、旅の「本質」であるということです。

家族の本質というのもそうやって、回顧される場面に初めて「表出」してくるものだということなんでしょうね。

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だとしたら、僕らは、そのときがいつか訪れると信じて、今をつなぐことしかできないはずで。

唯一実践できることは、いつかこれがある種の”捏造された形で”で思い出されるといいな、という願いでしかありえない。

そうやって未来に託すことが、まさに「祈り」という行動の本質なんじゃないかとさえ思います。

そしてその回顧した記憶、冒頭にご紹介したような「歌」のような情景を共有できること、その「祈り」みたいなものを共有できる共同体、それが「コミュニティ」の本質のように僕は思います。

もっと言うと、「宗教」の本質の一つでもありそう。

で、これこそが、僕らが求めている居場所”そのもの”なんじゃないかとも思うのです。

つまり、目的地に到達することが「旅」だと思っていたら、実はその過程のほうが旅だったと、あとから振り返って気づくことに非常によく似ている。

でも渦中にいる間には、ソレには絶対に気付けない。そしてそれを意識し対象化してしまったら、それはもう旅ではなく、再びまた白々しい目的に変貌してしまう。その繰り返しです。

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今日は、ものすごくややこしい話をしている自覚はあります。でもものすごく大事なことを書いている自信も同時にあります。

家族は、あくまで暫定的な制度であって、通り過ぎるもの。

そんなのは、完全にニヒリズムだと言い放ちたくなると思うのだけれでども、でもだからこそ、家族というものは逆説的に、僕らの中にははっきりと存在しているという証でもある。

ゆえに、この事実を共有できていること自体が、僕らに何か居場所めいたものを与えてくれるんだと思うのです。

そんなことを考えている今日このごろです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。