昨夜、Wasei Salonの中で自炊料理家・山口ゆかさんの新刊『自分のために料理を作る    自炊からはじまる「ケア」の話』読書会が開催されました。

https://wasei.salon/events/5a6202282b4c

著者の山口さんを囲んで、みなさんで答えのない問いについて考える時間が、本当に尊い時間だったなあと思います。

今日はこの読書会を通して、改めて僕が考えたことについて、このブログの中にも書き残しておきたいなあと思います。

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この点、この本の内容や昨日の読書会の中で語られていたみなさんの悩みごとに限らず、「料理をつくるということ」に対して本当に多くのひとたちがいま悩んでいるんだなあと。

そして僕が客観的に、彼らの悩みを見ていて思うのは技能やスキル面の問題だけではないということです。

もっともっと「実存的な問い」でみなさん悩んでいらっしゃる。

具体的には、自己実現、自己肯定感、承認欲求などなど、ものすごく自らの深いところにある「影」につながっているんだろうなあと。

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で、ここまで考えてきてふと思い出したのが、先日観た、片づけコンサルタント・近藤麻理恵さんと経済学者の成田悠輔さんの対談の内容です。


こんまりさんも「片付けに関して個人にコンサルティングをしていると、個人の触れちゃいけない部分、パンドラの箱が開くようなことがある」というようなお話を語られていました。

ただのお片付けのお手伝いだけでなく、ヒーラーみたいな役割をすることが求められるタイミングがあって、一度開いてしまったフタ、そこから出てくる感情と向き合うのか、それとも一端閉じるのかを悩まれるという話を語られていて、これはなんとなくですが想像がつくなと。

そして、これはもはや臨床心理学などにおけるケアに関連するお話そのものですよね。

だからこんなにも日常的なことである「家事」という事柄にも関わらず、ケアの観点が求められるのだとも思います。

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で、この話の流れの中で、成田悠輔さんが語られていた「片付け問題が、長いあいだ人類の定住を阻んでいたんじゃないか?」という仮説の話も本当におもしろかったです。

成田さん曰く「人類が長らく狩猟採集生活で移動生活をメインに行なってきて、定住生活に落ち着くまでにかなりの時間がかかったのではないか」と。

その原因は、定住生活の中で生まれてくる様々な諸問題、それがどうしてもうまくいかなくて、集団内で仲違いをしたりして続かなかったのではないか、と仮説を語られていました。

これは、言われてみれば確かにそうですよね。

移動生活をしていれば、片付け問題だって必要はなくなるし、毎回移動するたびにそれはご破産になって、喧嘩することもなくなる。

つまり、定住生活で生まれがちな人間同士の葛藤や小競り合いのような問いというものは、移動生活の中ではほとんど生まれてこないわけです。

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じゃあ、逆にいうと、 1万年前からなぜ人類は定住生活ができるようになったのか。

もっと言うと、どうして定住生活をするようになっても、問題がおきなくなったのか。

それは、集落共同体の中で、分業制にしてバイアスをつけて、そこにヒエラルキー構造をつくったからですよね。

つまり、今で言うところの、明確な役割分担をつくったから、です。

定住していてもそこで揉めないように、子どもが生まれた瞬間から、その子どもの役割を予め明確に定めたわけです。

一番わかりやすいのは男女の役割ですが、それ以上にありとあらゆる職業や身分などを定めたことによって、それまで何度挑戦してもうまくいかなかった「定住生活の様々な失敗」の終止符を打つことが出来たのではないかと、僕は推測します。

もちろん、そのときに集団内で平和的な話し合いが行われたとは到底想像できず、力があるものが、無理やり暴力を用いて統治したとも言えるかと思います。

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この点、役割分担で言えば、わかりやすいのはインドの「カースト制度」であって、これは日本人の僕らからすると、非常に悪名高い制度のように思う。

でも社会学者・橋爪大三郎さんの『世界は宗教で動いてる』に書かれているカースト制度のお話を読むと、単純にそうとは思えなくなります。

むしろ、カースト制度というものが、それまでにはなかった人類にとって大発明だったことがよくわかる。

以下で本書から少しだけ引用してみます。

カーストは職業と結びついています。奴隷がどんな仕事をするかは主人の意向次第ですが、カーストでは、誰かが命令して職業を変えることはできません。生まれた瞬間に職業が決まっている。ということは、失業もない。なぜなら、その仕事はそのカーストの人間しかできないから。ほかの誰かがその職業をやりたいと、割り込んでくる心配がない。どんなに身分が高いカーストのひとでも、庭を手入れしようと思ったらそれができるカーストのひとを呼んでこなければならない。料理を作らせようと思ったら、そのカーストのひとを呼んでこなければならない。このように、すべてのカーストの人びとが相互依存しながら生きていく社会ができている。とてもうまい仕組みです。こんな仕組みを古代に考えたインド人は、なかなか素晴らしい。


たとえば鉛筆一本落ちた場合においても、それを拾うのに、役割がある。

そして各人に役割があれば、その役割を担っているうちは、その共同体の中にちゃんと居場所があるということです。

こうすれば、確かに「定住生活」による問題を未然に防ぐことができるなあと思います。本当に人類の知恵であり、叡智の結晶ですよね。

もちろん、役割分担からの逸脱は許されず、一生その役割からは逃れられないけれども、そのかわり、他の土地から労働力を収奪してきたり、そのための戦争をする必要もなくなるわけです。

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でも、ご存知の通り、もう現代はそんなことを言っていられなくなりました。

悲惨な争いが目の前で起きなくなったがゆえに、代わりに「実存的な問い」が前面に出てきているような状態です。

歴史の中で何度か巡ってくる「戦争を知らない世代」というのは、きっとそういうことなのだと思います。

良くも悪くも、平和よりもそれぞれの「自己実現」や「自由」を求めてしまう。つまりバイアスを排除・解体しようという流れに、わかりやすく傾くわけですよね。

もちろん、世間的にも政治的にも「ヒエラルキーや役割分担なんてもうありません!各自それぞれで判断してください!」となっているのが現代の先進国社会です。(いわゆるネオリベラリズム)

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そうすると今度は、「ビュリダンのロバ」状態に多くのひとたちが陥るわけです。

バイアスをつけて客観的に決まっていれば、大して悩む必要もないことに、いちいち合理的にどちらが正しいのか、細部まで考えてしまって、決められなくなって、結局どちらも選べずにそこに立ちすくんでしまう。

具体的には、結婚しないひとたち、家族や子どもをつくろうとしないひとたち、名前を変えようとしないひとたち、そしてどっちが本当に正しいのかを考えているうちに、適齢期が終わる、というような。

もちろん、一方的に選んだら選んだで今度は家庭内での「自由」を求め合うための争いが絶えません。

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僕は、本当にこれでいいんだっけ?と強く思います。

もちろん、答えは一切ない事柄です。逆に言うと、1万年前からの人類の問いが、今このタイミングになって僕たちの目の前に再び浮上し、立ちはだかっているとも言えそうです。

そりゃあ実存的な悩みにも、ぶち当たって当然だと思います。

長く続いた江戸時代も、平和で参考にするべき時代だといわれたところで、強烈な身分差別と役割分担があったおかげで、約260年間続いていたとも言えるわけですからね。

そのような問いと、今自分たちは向き合っているんだという自覚を持てるかどうか。

どうせ家事・育児なんて些末な問題だと切り捨てるのは、本当に愚かなことだなあと思います。

いわゆる商いやビジネス、政治や政局の話のほうが圧倒的に些末な問題。

当時の人々が奴隷を用いたのと同じように、これらはAIやロボットの役割だと割り切れる時代がやって来れば解決する問題のかもしれませんが、それにはもう少し時間がかかりそうだし、自分たちが生きているうちには、実現しないかもしれない。

そのうち、必ず戦争にまで発展する。自分たちがやりたくないこと、それをやらせるためのその労働力の奪い合いになるわけだから。

すでに、今の海外からやってきている安い労働力や技能実習生の問題なんかもまさにそう。結局、自分たちの視界に入らないように、見て見ぬふりをしているだけですからね。

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役割分担や、その社会や世間の「バイアス」の偏りさえぶち壊せば理想的で新しいものが勝手に立ち現れるという考え方は、どう考えても楽観的過ぎる。

もっと根本的なところ、構造的なところから見直す必要があるんだろうなあと僕は思います。

繰り返しますが、ここに答えはない。けれど、1万年間解決することができなかった問いといま再び向き合っているのかもしれないということに対しては、常に自覚的でありたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。