昨夜、Wasei Salon内で開催していた『絶対に裏切らないカラマーゾフの兄弟』という5ヶ月連続の読書会企画が、その全5回のすべてを終了しました。

https://wasei.salon/events/62f53753cc8c

このサロンの有志のメンバーのみなさんと一緒にカラマーゾフの兄弟を読み終えた、5ヶ月間。

本当に尊くて、決してなにものにも代えがたい時間だったなあと思います。

今日はこの企画を終えてみたあと、今の率直な感想を書き残しておきたいなあと思います。

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まず、この企画を始めたきっかけとしては、Wasei Salon内においては「参加しても、参加しなくても自由」という菩薩的なイベントが多いなかで、もう少しスパルタ的なイベントをやってみたらどうなるのだろうかと思い立ったことが一番大きなきっかけでした。

何となく直感的に、今この「優しい空間」の中で「厳しい新企画」に取り組んでみたら、またこれまでとは異なる実りがありそうだと感じていたという感じです。

それが「絶対に裏切らない〜」という言葉に密かに込めた想いになります。

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で、実際にこの企画をやってみて改めて思ったことは、ひとつの作品を最後まで同じメンバーで読み切るという体験は、何か長い旅を一緒にし終えた感じみたいだなあと感じます。

現代だと、むしろこういう表現をしたほうがわかりやすいと思うのだけれども、メタバース空間に一緒に潜り込んで、その中を一緒に旅した感じというような。

「カラマーゾフの兄弟」という長編小説のフィクションの世界に潜り込み、そこで彼ら登場人物の生活や葛藤をこっそりと覗き見してきた感じです。

そして、一巻毎にそれぞれ、その場面をどのように解釈したのかを現実世界に戻ってきて、ゆっくりと一緒に語り合うというような。

今はなんだか合宿企画が終わった印象にも近いです。

他にも、ディズニーランドに行って、ものすごく長い長いアトラクションを一緒に乗ったみたいな感じを想像していただいても、伝わりやすいかもしれない。

逆に言うと、ひとりで読む長編小説の読書というのは「ホーンテッド・マンション」や「スプラッシュ・マウンテン」などのストーリー展開のあるアトラクションに、一人で乗るようなものなのかもしれないなあと。

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じゃあ、ここで感じている具体的な「価値」とは一体何なのか。

それが今日のタイトルにもある通り、この小説の「価値」をみんなで共に探求するというそのプロセス自体に、圧倒的な意味があったのかなあと思っています。

そして、それと同時に『カラマーゾフの兄弟』のような古典の安心感、懐の深さも非常に強く実感しました。

これが喩えとして適切なのかどうかはわからないですが「ここには絶対に金塊が眠っていることは間違いない」と思えるその安心感。

このまま最後まで掘り進めても絶対に大丈夫だと思える安心感のようなものは、思っていた以上に絶大でした。

いまの僕らには、その価値がまだまだ見えていないだけであって、でも、きっとここに価値があるはずだという古典特有の信頼をもとに、多少険しい行程だったとしても、一緒に価値を探り続けることができる。

歴史の風雪を耐えてきた圧倒的な古典の強みって、まさにここにあるのだなあと強く実感しました。

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歴史の中で、この作品を読み終えてきた数限りない先人たちが「あの『景色』は本当にかけがえのない体験だったよ!」と実際に言ってくれているわけですから。

そうすると、その目的地がどれだけ人里離れた場所であったとしても、来た道を振り返ったり引き返したりせずに、最後の目的地までたどり着ける。

「たどり着いた先が、しょうもない場所だったらどうしよう…」という不安がそもそもないわけです。

世の中、何事においても、やってみなきゃわからないとは思いつつ、コスパやタイパも同時に求めてしまうのは現代人の性でもある以上、この先に必ず価値がある、ないわけがない、その魅力を自分たちがまだわからないだけと思える信頼感は本当に頼もしいことだったなあと思います。

そういう意味でも、古典にまつわる先人たちが遺してくれた足跡って本当に素晴らしいなと。

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この点、僕らが、実際に読書会で拝読させてもらった光文社古典新訳文庫版の翻訳を手掛けていた亀山郁夫さんは、『カラマーゾフの兄弟5~エピローグ別巻~』の中で、翻訳者の立場から以下のようなことを書かれていました。

少し本書から引用してみたいと思います。

わたしはいつしかこんな夢を見るようになった。     
日本のどこかで、だれかが、どの時間帯にあっても、つねに切れ目なく、お茶を飲みながら、あるいはワインを傾けながら、それこそ夢中になって『カラマーゾフの兄弟』を話し合うような時代が訪れてほしい、と。     

これほどに解釈がわかれ、はかりしれない深みへと心を誘いこむ小説には、なかなかお目にかかれない。グローバリゼーションという現代の状況からはるか遠い時代に誕生した小説ではあっても、どれひとつ、われわれの「生」のありようと無縁なテーマはない。


これは5巻の最後の最後に書かれていた内容なので、最初からこの部分を意識したわけではまったくなかったのですが、まさにここに書かれているようなことを、僕らが亀山郁夫さんの翻訳によって、行わせていただいたなあと強く思います。

見事に亀山郁夫さんの手のひらの上で転がされたとも言えるし、その結果として「確かなバトン」をみんなで一緒に受け取った感じもする。

このように、世の中には「落ちているバトン」が本当にたくさんある。そちらのほうにしっかりと目を向けていきたいなあと改めて強く思います。


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あまりにも陳腐な表現ではありますが、この体験は一生忘れないだろうなあと思います。

他者との「記憶の共有」がもたらしてくれる「かけがえのなさ」みたいなものを改めて強く実感しました。

「あの日、間違いなく自分たちは同じ時間を共にした」という記憶に勝るような財産はない。そして、自らの記憶を失うまではずっと、自分の中に確かに存在し、誰にも奪えない財産のひとつとなってくれるのだろうなあと。

これは時間が経てば経つほど、自分の中でさらに価値を体感できるものなのだろうなあとも感じます。

何度も繰り返してしまいますが、ひとりで読んでいたら、このような読書体験というのは絶対にできなかったはず。

きっと、教養や知識のためだと思いながら、歯を食いしばるように読んでいたことだと思います。それのなんとつまらないことか。そして、読み終えたところで、すぐに忘れてしまっていたことでしょう。

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もちろん、大学とかのゼミでも、こんな読み方は出来なかっただろうなあと思います。

そこには、必ずそりが合わない嫌なヤツがいる。「とはいえ〜」と話の腰を折る人間が必ずいます。

でも、そういうひとは、今回のメンバーの中には誰ひとりとして存在しなかった。これが本当にありがたかったことのひとつです。

「読書体験の共有」というのは、似たような学力レベルで行うのではなく、知的好奇心や価値観のほうが重要だということが今回改めて痛いほどに理解できたような気がします。

参加者の皆さん全員が、この作品をそれぞれの立場から全力でおもしろがっていて、その魅力とは何か、その本質を探ろうとしている姿勢が、とっても素晴らしかった。

そのような空間内にだけに訪れるドライブ感みたいなものは間違いなくあるような気がします。

こればっかりはぜひ体験してみてください、としか言えません。

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最後に、僕が実際につくりたかった空間、体験したかった空間というのは、昨日までのような場がそのひとつだったんだなあと強く実感しました。

これは、本当にやってみないとわからないこと。自分がつくりたかったものは、それがどのようなものであっても、完成した後から振り返った時にしかわからない。

まさかWasei Salonを始める前、もっと言うと自らがWaseiという会社を起業する前には、自分がこのような場所を求めていたとは、夢にも思わなかったです。

でも、間違いなく批評家・若松英輔さんの語る「確かな場所」のひとつでした。

こういう機会や、チャンスをこれからも増やしていきたいなと思います。

そのためには、何が起きるかわからない中でも、直感を信じて行動を起こしていきたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。