昨日書いた「人の成熟と社会との関係性。ズレを感じたときの知行合一」というブログに対して、メンバーのまいとさんが、素晴らしいコメントを寄せてくださっていました。

https://wasei.salon/timeline?message_id=6365441 

これが本当にとっても嬉しかったです。

僕はマンガ『バガボンド』の話は、きっと伝わらないと思ってあえて書かなかったのですが、このブログを書きながらずっと頭の中にあったのは、バガボンドの中の宮本武蔵と沢庵和尚の「天」に関する対話のシーンです。

こうやって、ブログを毎日書いていると、どれだけ丁寧に言葉を紡いで書いてみても、まったく伝わらないこともあれば、昨日のように「どうせ伝わらないだろう…」と半ば諦めて例示することさえ断念したのに、そんな自分自身がひとつ上のレイヤーでずっと考えていたことを見事に見透かされるように、こうやって言及してもらえることもある。(これもサロンの良いところ)

こんなときにブログを書いてみて本当に良かったなあと心底思えるし、深いところで共鳴しているなあと思わされる状態になります。

”そんな視点”があるからこそ、今日も伝えることを諦めないでいようと思えます。そして、今日も変わらずに淡々と書き続けていこうという勇気ももらえる。

さて、今日は昨日のブログの続きでもあり、まさに”そんな視点”のお話を少しだけ書いてみようかなと。

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というのも、まいとさんに、これは『バガボンド』に出てくる「天」の話だと言われて、自分の中でハッとしたのは、昨日のブログの最後に言及した『坊っちゃん』にとって、その下女である「清」の存在の意味するところが、なんだか明確になったような気がしたからです。

昨日は「こればかりは言葉ではうまく伝えられない」と書いてしまい、「清」の存在意義をなかなかうまく言語化することができなかったのですが、この「坊っちゃんと清の関係性」って、バガボンドで言えば「宮本武蔵とお通の関係性」そのものだなと、今になってものすごく腑に落ちたのですよね。

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バガボンドを読んでいない方に、もっとわかりやすく伝わるように言い換えるとするならば、同じく井上雄彦作品のマンガ『スラムダンク』における桜木花道と晴子さんの関係性。

そこから、いわゆる「少年ジャンプらしい恋愛要素」を引き算した感じと言えばわかりやすいでしょうか。

マンガは読んでおらず、映画『THE FIRST SLAM DUNK』だけを観た方にとっては、「宮城リョータと彩子さんの関係性」と言ったほうが伝わりやすいかもしれません。

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つまり、それってきっと「プレイヤーと、マネージャーの関係性」ということなんですよね。

しかも単に、身辺のお世話係という形式的なマネージャーではなくて、もっともっと広義の精神的な安定感をもたらしてくれるような存在です。

プレイヤーとして、数々の苦難に立たされて、完全に目の前のプレッシャーに心が押しつぶされそうになったときに、手のひらに「NO.1ガード」と書いてくれるような存在です。

思い返してみれば、まさに『坊っちゃん』の作品の中でも、清は何度も何度も坊っちゃんの手の平に「NO.1ガード」と書くような言動をしていたなあと思います。本当に彩子さんような存在でした。

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具体的には、生きるうえで、大きく心が迷ったとき、もしくは何か断固たる決意をしたいときに、その自己のブレない想いみたいな獲得した結果を、宣言したくなるような対象(存在)です。

桜木花道に至っても、映画の中では描かれていなかったですが、「断固たる決意」のあとに、晴子さんに対して「(バスケットボールが)大好きです    今度は嘘じゃないっす」と宣言したように。

まいとさんは、「天」のような存在を、一神教における神と人間の関係性が定まるようなという表現をしていましたが、本当にその通りだなあと思います。

「天」に誓うときに、その証人のような役割を果たす相手の「存在」によって、自分の立ち位置が自然と定まってくるような関係性。

それはいつだって祈りのような行動をするときに、ふと自然と思い出してしまうような「存在」なのだと思います。

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ルミネの有名な広告に「試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。」というものがありますが、まさにあのような、主客未分の純粋経験の最中に、ふと一瞬だけ舞い降りるような形で立ちあらわれるような。

(余談ですが、このキャッチコピーの凄いところは、主客未分の状態の想起であることを、主語や思い出すその対象などは一切明言していないところ。言い換えると「私が試着室でカレのことを思い出したら、それは本気の恋だと思う」ではダメなんです。それはもはや主体と客体が分かれて、観察する客体になってしまっているから。理性で考えてしまっているわけですよね。この微妙な表現をできるから、日本語って本当にすごい。)

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さて、このマネージャー的存在が、いま僕がとても大切だと思っている存在であって、世間に圧倒的に足りていない存在なんじゃないのかなと思うのです。

なぜなら現代において、「他者をお世話する」ということが良くも悪くも嫌われる立ち回りになってしまったから。

そうではなく、みんな自分自身が主役になることが良いことだと信じて疑わず、そのような状態を無意識に望んでしまう。

仮に、お互いに支え合うであっても、自分が主役になるために、あくまで等価交換のようなマネジメントしかお互いに提供し合わない。常に軸は自分側にあるんです。

それは現代の一般的な共働きの夫婦なんかを見ていても、本当にそう思います。

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さて話をもとに戻すと、人生中における迷いや大きな決断をするときに思い出す相手が、坊っちゃんにとっての「清」なんです。

で、たぶん、この「存在」というものは、ひとりの人間だけでなく「コミュニティ」という存在としても生み出せるはず。僕は割りと本気で思っています。

それはまるで、故郷を思い出すかのように、です。

バガボンドにおいても、宮本武蔵にとってお通と故郷の宮本村がセットであったように。

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もちろんこのような考え方が、悪用される恐れがあることも間違いありません。

それこそ、お国のため、愛する家族のためにと言って、多くの若者たちが戦争に出て死んでいったように。

だから、本当に取り扱い注意の代物ではあるなあとは思いつつも、でも本来、コミュニティや共同体というのは、その自分の本領を発揮するために、祈りの際に思い出す対象としてあるものだと僕は思います。

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あと、これは完全に余談ですが、今日のお話の中で、スラムダンクを例で考えてみて、改めて思ったのは、バスケットボールの試合中の「タイムアウト」って以前書いた「喫茶去」の話そのものだなあと。

60秒間に、ベンチに迎え入れて、またコートにすぐ送り出す。

このときに、監督やマネージャーは「良くぞ頑張った!」と「さあ、もう一度頑張ってこい!」をたった60秒のあいだに両方行うことになる。これが本当に喫茶去的だなあと。

まさに「水を飲んで去れ!」なんですよね。

そしてベンチの中で交わされる、数少ない言葉によって、ゲーム全体の流れを変える力を持っているんですよ、本当に不思議なことに。

僕は、まさにあのたった60秒の時間と、あのベンチの存在を、みなさんに提供したい。

つまり、このサロン中で日々行っている対話会や読書会というのは、人生の「タイムアウト(小休憩)」であり、そこで「これからどう生きていく?」という作戦を練ってみるという、とっても大切な時間なんだよなあと。

そんなたった60秒間のタイムアウトがあるだけで、間違いなく人生はより良くなる。試合の空気や流れというのは、少しずつ変わっていくのです。

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このWasei Salonも、それぞれひとりひとりの人生という試合(ゲーム)における、60秒間だけ戻ってこられるベンチみたいな場所になったらいいなあと、本気で思いました。

そしてお互いの手のひらに「NO.1ガード」と書き合えるような、お互いの可能性を常に信頼しあって、コートに戻れる(送り出せる)間柄、そんな関係性を少しずつ構築していきたい。

最近漠然と考えていたことが、まいとさんのお陰で、より伝わりやすそうな具体例に落とし込むことができたので、今日のブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。