何かの職業において、給与が安すぎることをに対して「食えない」という表現をすることを、一般的によく見聞きするかと思います。

最近だと、文系でも理系でも「研究職がまともに働いていても満足に食えない」という話がよくニュースなどでも話題にあがるようになりましたよね。

でも僕は、この表現が意外と良くないのかもなと、最近頻繁に思うようになりました。

なぜなら、もし食べ物を選り好みしなければ、今の世の中ではまず間違いなく「食える」からです。

この言葉が使われた当時は、きっと本当に食えなかったんだろうけれど、今は様々な企業の絶え間ない企業努力のおかげで、食えない世界は、この国においては一旦なくなりつつある。(もちろんゼロではないかとは思います)

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しかも厄介なことには、そのような食を自ら好んで、毎日食べているようなひとたちもいる。

それは毎日食べたくなるように細工されているとも言えそうですが、一応自由意志のもとその食料品が選ばれているわけだから、つまりは本当に選り好みの問題に帰結するわけですよね。

日本の場合は、ベーシックインカムのようなことが、私企業の企業努力の取り組みによって、もう既に始まっているとも言えるわけです。

たとえば、本来あと毎月7万円高くなってしまう食費が、チェーン店の企業努力によって7万円安くなっているのであれば、それは、つまり7万円分のミールクーポンが配られていることと同義だと思います。

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じゃあ、この「食えない」という言葉の含意するところは一体何なのかといえば、ちゃんと「暮らせない」ということであるはずで。

そのたとえとして、いま僕らは「食えない」という比喩を、共通言語として暗黙の了解のうちに用いて、お互いにコミュニケーションを取っているわけです。

とはいえ、ここからが本題になってくるんですが、「暮らせない」ということ自体も、それはきっと嘘なんですよね。

独り身であれば、大体は現代社会においては不自由なく暮らしていける。

要は、ここで言う暮らせないという意味は「普通には、暮らせない」という意味合いであるはずなんですよね。

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じゃあ、その「普通」とは一体何なのか。

それは「世間一般的に、暮らせない」ということであって、やっぱりここも「世間」の問題に帰着するなあと思います。

これが、キリスト教圏であれば、「人はパンのみにて生くるにあらず」みたいな話につながるんだろうなあと思いつつ、宗教を持たない日本人にとって、その基準というのは間違いなく「神との関係」ではなく「世間との関係」のほうにある。

だから、これはものすごく「日本的な問題」なんだけれども、「食えない」という言葉を用いることによって、なんだか人間としての生きる尊厳が保たれていないような錯覚に陥ってしまうよなあと思うわけです。

そして、それが問題の本質を見えなくなってしまっているなあと、僕は思います。

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つまり、ここで僕がいま一体何が言いたいのかと言えば、「食えない≒世間体を保てない」ってことであって「それこそが問題なんだ」とみんな言及しているということです。

誰ひとりとして、食い物の話なんか最初からしていない。

逆に言うと、「世間体を保つということ」は、食うことと同じか、もしくはそれ以上に、日本人にとっては重要であるという意味合いが、この言葉の中に含まれていて無意識にあらわれてもいるなあと思います。

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さて、少し話はそれますが、現代のような成果主義がうるさく言われるようになったのは、多様性や個人主義のようなものが、世の中で重要になってきたからだ、と一般的には語られがちです。

年功序列や身分・性差による傾斜配分は、どう考えても間違っている。それは他人の「自由」を侵害しているのだ、と。

でもきっと、本当はそれだけじゃないはずです。

昔のように、成果が出にくい世の中になったことによって、成果主義が殊更うるさく言われるようになったんだと思います。これは内田樹さんも様々なご著書の中で語られていること。

なぜならそれは、すべて分配の問題につながるからです。

高度経済成長期からバブルの時代のように、成果がドンドン出ていて、誰もが組織に属しているだけで「明日は今日よりも、もっと良くなる」と思っていれば、その分配の基準としての成果主義や技能主義のことなんか、わざわざ言挙げするひとなんていない。

むしろ、成果が出なくなったから、誰に配るべきなのか、その厳格な価値基準が必要となっているわけですよね。

具体的には、「あいつが、あんなにもらうのはずるい!」という声が各方面からあがったがゆえの、その分配する際の要件定義も、ドンドン厳しくなっていったわけですよね。

つまり、そこに、「働かざる者、食うべからず」として、成果や結果というわかりやすい「ものさし」が持ち込まれたわけです。

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で、もう勘のいい人はこのあたりで理解していると思うのですが、そうすることで、むしろ「世間の肥大化」が起こるわけです。

まさにそれが「今」起きていること、ということなんじゃないでしょうか。

成果主義、実力主義であればあるほど、個人主義となり、古めかしい「世間」というものが解体していくと、僕らは信じて疑わないのだけれども、実際はその真逆だということなのでしょう。

成果主義や実力主義を強調すればするほど、本当のところは、その「正しい成果」を上げるための、「正しい方法」が強調されて、その結果として「世間」の価値観やその「標準」が、より一層強化されていくという構造であるはずなんです。

それが、「新しい戦前」と揶揄されてしまうような「世間の肥大化」にもつながっていく。

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そして、この国においては歴史の中で繰り返し、その最後の引き金になるのが、一瞬にしてその「分配構造」が乱れたり、壊れたりしてしまうような地震などの自然災害が大きかったということなんだと思います。

つまり、じわじわと広がる「世間の拡大」と、そこに最後のとどめを刺すように地震が襲ってくることによって、ジェンガが見事に倒れてしまうというような。

そこから一気に戦争の道にまっしぐら、ということなんじゃないでしょうか。

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この、成果主義、実力主義が世の中で騒がれるときこそ、実はその成果主義や実力主義が一番嫌う、世間の肥大化につながっていることを一体僕ら日本人は、どれぐらい自覚しているのか。

そのことに対して、ありとあらゆる先人たちが様々な形で書籍に残し、その警鐘を鳴らしてくれているわけだから、僕はここにこそ、もっともっと自覚的でありたいなあと思いました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。