先日、ウォルター・アイザックソンが書いた『イーロン・マスク』の伝記を上下巻すべて読み終えました。

今思うのは、同じくウォルター・アイザックソンが書いた『スティーブ・ジョブス』と比べると「禅」の概念の有無が、このふたりを一番分けるものだったなあと思います。

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この点、ジョブズが禅の思考を取り入れ、自らの哲学や価値観の根底に据えたことはよく知られている話です。

『スティーブ・ジョブズ』の本を読んだのは、10年以上前なので、僕がそう思い込んでいるだけかも知れないけれども、ジョブズは何か迷うことがあると、必ずその「原点」に立ち戻るように、「禅」の概念を用いていたように思います。

つまり自らの目指すべき姿、あるべき姿を「禅の境地」に求めたわけですよね。

それは、スティーブ・ジョブズの「生涯の師」であった乙川弘文について書かれた『宿無し弘文』という本を読んでみても、とてもよくわかります。

そして僕自身も、どちらかと言えば、禅のような「広義の宗教性」に、立ち返るようなあるべき基準、その原点を求めてしまいがちです。

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僕ら人間は、こうやって各人の中にある思想や信条の中にある何か「あるべき状態」みたいなものを想定し、自分自身の目の前にひろがる「世界」の違和感のほうを修正しようとしてしまいがち。

それが一般的な世界に対してのアプローチです。

でも、果たして本当にそうなんだろうか?って最近はずっと考えてしまうんですよね。

これがあまりにも一般的すぎて、ここまで読んでくださっている方には、逆に一体何を言っているんだ?おまえは何を問題意識にしているんだ?って思われているかもしれません。

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この点、最近発売された養老孟司さん、東浩紀さん、茂木健一郎さんたちの鼎談の本で『日本の歪み』という新書があります。

僕もまだすべてを読み終えてはいないのですが、このまえがき部分が、長年の養老孟司ウォッチャーとしてはかなり衝撃的なことが書かれてありました。

なぜなら、これまでの養老さんの考え方とは、少し趣が異なるような話をしてくださっていたからです。

以下本書から少しだけ引用してみたいと思います。

「歪み」という主題が成り立つためには、「歪んでいない」という状態があるはずだ。ところが現実には、「歪んでいない」状態が客観的に規定されているわけではないから、どれだけ世間がおかしいと思っても、自分が不適合なのかもしれないという思いは否定できない。
(中略)
だから今回の鼎談まで、その種のことはできるだけ考えないようにしてきた。それでも、どこかに普遍性を担保する基盤があるはずだと、世間が押し付けるものとは別の普遍性を探ろうともした。いまにして思えば、どこかに正しさがあるという思い込みこそ、「近代日本社会の歪み」そのものだったのかもしれない。
(中略)
現在の社会が、いろんなことが複雑に絡まり合った結果としての、いわば歴史的な必然なのだとしたら、同時に、現在の自分もまた、歴史的な必然だということになる。世間も自分も、それぞれがやむを得ずそうなっているならば、どちらもそういうものだと思うしかない。どちらかが正しいと片をつけられる問題ではなかったのだ。


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起こることはすべて、起こるべきして、起こっている。

以前もご紹介したことのある剣豪・宮本武蔵の「我事において後悔せず」の話にも非常に似ている話だと思います。

これを踏まえて僕は、何一つとして客観的な正しさみたいなものは、実は存在しないのかもしれないという極端な視点も、もう一方で同時にちゃんと持っておきたいなあと思いました。

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この点、いわゆる文系と理系の対比みたいな議論のなかで、よく話題にあがりがちなこととして「この世界に唯一無二な存在は、アインシュタインかドストエフスキーか」みたいな話があるかと思います。

これは、最近読んでいる『ChatGPTは神か悪魔か』の中で、山口周さんが似たような話題を持ち出していたので、たぶんここの部分をそのまま引用したほうがわかりやすくなると思います。

少しだけ本書から引用してみたいと思います。

そういえば、ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生は、よく「アインシュタインとモーツァルトのどちらが天才と思うか」という質問を挙げたうえで、彼自身の答えがモーツァルトだという話をしていました。     理論物理学者としての小柴先生の謙遜なのかもしれませんが、彼自身の回答を引けば「アインシュタインの相対性理論は物理学を突き詰めていけば、必ずいつか誰かが発見する。しかし、モーツァルトの音楽は誰にもつくることができない。だからどちらが天才かといったら、モーツァルトだ」というのですね。


これと同じような話を、音楽におけるモーツァルトに限らず、文学におけるドストエフスキーのような作家にも用いられているというお話です。

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で、この山口さんがご紹介してる小柴昌俊先生のおっしゃる論理って、パッと見すると、ものすごく納得感のある説明のように感じられるかと思います。

でも果たして本当にそうなのか?っていうことも同時に問いとして持っておきたいってことを、をここでは強調してみたいんですよね。

僕は、どちらも結局のところ「一回性」なんじゃないのだろうか思うのです。

ものすごく現実の直感とはかけ離れたことを言っている自覚はありますが、アインシュタインが言及しなかったら、やっぱり「相対性理論」も一生存在しなかったのではないか。

そして、逆に言えば、文学や音楽もむしろ「発見された」んじゃないかとも思います。ドストエフスキーを読むと、なぜだかわからないですが、自然とそう感じられてしまうから不思議です。

もしドストエフスキーが発見しなくても、他の誰かが同じ『カラマーゾフの兄弟』を書いていたのではないか、と。

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で、養老孟司さんは、この僕らの思い込みを指摘してくれたのではないのかなあと思うわけです。

というか、僕はそのようなメッセージを、先ほどご紹介したまえがきの文章から感じ取りました。

さて、ここで冒頭のイーロン・マスクの話に戻ると、ウォルター・アイザックソンは下巻の一番最後を以下のような文章で締めくくっています。

Twitterで荒ぶるマスクに対して、その制御ボタンというものが、もしも存在していたら?という架空の話を、想定した上でのお話です。

以下本書から少し引用してみたいと思います。

衝動を抑える遅延ボタンーーそれひとつで、マスクのツイートはもちろん、闇の衝動にかられた言動や悪魔モードの噴火など、通ったあとをがれきだらけにするあれこれが浄化できるなら、すばらしいことだろう。だが、そうやって抑えたマスクは、自由なマスクと同じことができるのか。口にフィルターをかけ、首に縄をかけても、マスクはマスクでいられるのか。まっとうなところもおかしなところもひっくるめ、マスクという人間を丸ごと受け入れることなく、我々は、ロケットを軌道まで打ち上げたり、電気自動車の世界に足を踏み入れたりできるのだろうか。偉大なイノベーターは、つまらない教育に反発し、リスクを求める「男の子」だったりする。むちゃだったり、周りが眉をひそめるような人間だったり、それこそ、毒をまき散らす人間だったりする。クレイジーなこともある。そう、自分が世界を変えられると本気で倍じるほどに。


さて、ここにおける「クレイジー」であるとは、一体どういうことなのか。

僕らが、イーロン・マスクのことをクレイジーだと思うのは間違いないのだけれども、そのクレイジーだと感じる自分自身の基準とは、一体何なのかってことを、ちゃんと考えてみたいなあと。

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この本を読めば読むほど、凡人とかけ離れていて、その一挙手一投足が突飛な内容すぎて、むしろ彼に嫌悪感さえ抱いてしまう。でも、その嫌悪する感情や、ズレているなと感じる感情とは、一体どこからやってきているのか?ということです。

僕らは、どんな「ものさし」を彼にあてがって、それを「外れ値」として認識して、クレイジーだと言っているのか。

このときに、大概のひとは、「普通じゃない」という言葉を用いると思うのだけれども、その「標準」「世間」「あるべき姿」って一体何なんだ?そちらを問い直してみたい。

なぜなら、たぶんこれからの社会は、この「中央値」や「普通」という概念がAIによって、音を立てながらぶっ壊れていくことは間違いないからです。

真ん中に引き寄せられる引力のようなもの、その正体や意味、近づいていこうとする自分自身に、ちゃんと「なぜ?」と問い直してみたい。

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これまでは、その真ん中に引き寄せられる引力を当たり前の前提としていても、何も問題がなかった世の中だとは思うのですが、AIが出てきて、圧倒的に実用化フェーズにはいってきた今、真ん中に引き寄せられることは、イコール「死」でしかないのかもしれない。

それはちょっと前の世界までは、少し中央から離れて「外れ値」になった瞬間に、死を意味したように、です。

もちろん、そんなときこそジョブズのように「禅」を学び体得しようとする姿も、とっても大事なことだと思います。

今日のお話は、まったくもって意味がわからない話だと思われてしまったかもしれないですが、ものすごく大事な視点であると信じているので、少しでも何かしらの発見が伝わっていたら嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているかたがたにとっても、考えるきっかけとなっていたら幸いです。