自らコミュニティ運営をしていると、その中でよく考えるのは他者を「歓待する」ということはどういうことなのか、という点です。

なぜなら、近年「歓待する」や「もてなす」という概念自体が、大きく音を立てながら日々変化しているように見えるからです。

コロナも終わり、インバウンドの観光客も戻ってきて、また新たに「ホストとゲストという関係性」が世の中に広く復活してきている。

特に、今年の夏はわかりやすく日本全国のお祭りなんかで「VIP席」が導入されたことも、非常に話題になりましたよね。

でも、何度かこのブログのなかでも語ってきたように、これが本当に誤った「もてなし」の概念からうまれている、非常に愚かな議論にしか僕には思えない。

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では、それは一体なぜなのか。

この点、先日もご紹介した内田樹さんの『街場の成熟論』のなかに、そのヒントとなるような記述を見つけました。

内田さんは、他者を歓待するときに振る舞うお茶は「粗茶でなければならない」と語ります。以下で、早速本書から少し引用してみたいと思います。

「もてなし」の基本は相手によって対応を変えないということである。歓待の本義は、たぶんそれに尽くされる。相手の足元を見て、歓待しておけばこちらに利益があると思う相手には礼を尽くし、みすぼらしい相手には茶も出さないというようなことをする人は「歓待」ということの意味が分かっていない。
(中略)
「もてなし」において最も重要なのは迎えるすべての人に等しく同じレベルの歓待を以て応じることである。相手によって対応を変えてはならない。だから、供するのは「粗茶」でよいし、むしろ粗茶であらねばならないのである。「茶が粗である」ということは「私は相手によって差別をしていない」という宣言なのである。だが、その趣旨をもう多くの現代人は忘れてしまった。


この話はとても強く同意します。

そして、最近このブログの中でよく言及している「喫茶去」の話にもつながるはずで、喫茶去の際に出すべきお茶は、粗茶で良い。むしろ「粗茶」でなければならない。

出す「お茶」のクオリティを相手によって変えてしまうのは、それは相手の持っている金銭的価値や相手の特権的価値を見定めて、つまり足元を見て、その態度を豹変させてしまっているということなのでしょうね。

もちろん、ここで語っている「お茶」というのは、あくまでも比喩になります。

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さて、この点に関連して、近年頻繁に目にする、欧米的な価値観を身に着けた人たちが、日本の文化を形式的に批判するときの話で、日本人は「つまらないものですが〜」と言いながら、自らの準備したプレゼントを渡してくる日本人は気が狂っているのか、みたいな議論があります。

「これこそ、あなたのために選んだ最高のものだ!」そうやって真正面から伝えることが、相手に対しての本当の「心づくし」なんだというふうに。

もちろん、そのような振る舞いは、決して悪いことではないかと思います。

でも、それというのは本当に表面的な話であって、やはりどこかに差別意識が含まれている、その裏返しでもあるはずなんですよね。

むしろ、日本ように「つまらないものですが〜」と言って渡すほうが、今日の話の流れからも分かるように、相手を心から「歓待している」ことにもつながると思うのです。

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もちろんそれは、実際には「つまらないもの」なんかではないことは間違いないのです。

そんなことは、渡す方も受け取る方も、最初からわかっている。

でもやっぱり、それを差し出すときに添えられるべき言葉というのは「つまらないものですが〜」という、物自体の価値を打ち消す言葉であるべきなんだと思うのです。

変な言い方に聞こえてしまうかもしれないですが、そうやってアンビバレントな二重性の意味を持たせて差し出すことにこそ意味がある。

本音と建前の使い分けることによって、初めて相手を敬っていることが伝わるということです。

「本音と建前は常に一致しているべきである」という考え方は、なぜか尊ばれてしまいがちだけれども、それは決していついかなる時にも、通用されるような正義ではない。

一方で、本音と建前の乖離があって初めて、成り立つ礼儀作法も存在するわけですよね。

つまり、ここで大事になってくるのは「自らの根本思想を一体どこにおくのか」という意味なのだと思います。

相手のために選んだものに対して、真正面から「相手のために選んだ素晴らしいものです!」という言葉を言い添えて渡すのは、やっぱりダメなのです。

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しかし、現代は、むき出しの歓待や、おもてなしが良しとされてしまっている。

そして、受け取る側も、それこそが私が敬われている証なのだと信じて疑わない。

でも、そうやってVIP席のような場所に通されるということは、その金銭的価値しかあなたには求められていない何よりの証しで、その金銭的価値が払えなくなったら「すぐにこの場から出て言ってください」と言われる対象であって、「あなた自身」には誰もなにひとつ興味を持っていないということなるんですよね。

もちろん、民事不介入の原則だから、公序良俗に反しない限りどのような契約だって許されて然るべきで、それは当事者間の自由ではあるのだけれども、その先に将来的に立ちあらわれてくる現実を、もっともっと中長期的な目線で想像したほうがいい。

大抵の場合、今この瞬間しか考えていないからこそ、そういうものを提供してしまうのだろうなあと思います。

この点、内田樹さんも、本書の中で、以下のように続けています。

再度、同書から引用してみたいと思います。

むしろ、歓待の仕方に細かいグレードの差を設け、「あなたは例外的に高い歓待をされています」と告げれば、来客を喜ばせることができると儲じている。だが、それは心得違いである。それは「私はあなた本人ではなく、あなたが所有する権力や財貨や威信に対して敬意を表しているのである。あなたがそれを失ったら、あなたは私からの歓待を期待できない」と告げているに等しいからである。でも、「私が歓待しているのはあなた自身ではない」と言われて喜ぶ人たちの方が今の日本社会では多数派を占めている。残念ながら、日本人はしだいに「歓待」の本義を忘れつつあるようだ。


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いま、僕らは歓待することを誤解してしまった結果として、ものすごく差別的なことを相手に対して嬉しそうに施していて、ディストピアにまっしぐらである、その自覚があるのでしょうか。

似たような概念ではありつつ、一期一会を大事にすることとはまったく趣をことにすることであるはずです。

そして、どちらが本当に富裕層の人格を尊重しているのか。むき出しの歓待を喜ぶ富裕層の人々こそ、お金を見せびらかしてその優越感にうつつを抜かしている場合ではなく、ちゃんとそのことを考えた方がいい。

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富裕層の足元をみて、彼らが持っている資源を再分配することが、場を主催している人間の責務のように語られる言説が日々語られている昨今ではありますが、本当にそんなわけないじゃないですか。

僕には、それはせっかくこの国の先人たちが考えに考え抜いて出してくれた伝統や文化を、冒涜しているようにしか思えない。

一方で、アメリカのような新しい国で生まれた万人にわかりやすい「贅沢」に目をくらませて、資本主義的な価値観に完全に毒されてしまっている証でもあるんだろうなあと。

だとしたら、その資本主義的価値観を突き詰めた結果、今アメリカという国がどうなっているのかをちゃんと同時に見定めてみたい。

貧富の格差、持たざるものになった瞬間に医療さえもまともに受けられない状態です。

いつだって自分が勝者の側にいると想定してしまうから、そのような価値観を礼賛するのだろうけれども、いつ自分自身が招かれざる客側になってしまうのかは、本当に誰にもわからないわけですからね。

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このWasei Salonは、この急激なインフレの最中においても、基本料金は変わらず据え置きのまま、その代わりに先日からドネーション形式を採用させてもらいました。


そのうえで、ドネーションの金額によってひとりひとりの扱いを変えるようなことはしていません。つまりVIP席のような扱いは、一切用意していない。

その理由も今日のお話につながっていると思っています。

僕ら運営側は、メンバー全員にまったく同じ「粗茶」で出迎えているつもりです。

VIP的な扱いに慣れきっている富裕層の方々からすると、なんて無礼な奴らなんだと思われるかもしれないですが、そうやってもてなすことが本当の「歓待」だと思っています。

これからも引き続き変わらずに「粗茶」だけを提供し続けることが、本当に大事なことだと思っています。

むしろ、その思想に共感してくれるひとびとに集まってもらえる空間のほうが、きっとこれからの時代においては本当に大事になってくるんだろうなあと。

結果的にそのような空間だけが唯一、どのような経済的な状況にいる人々にとっても、一番居心地の良い空間になるわけだから。

これからも淡々と喫茶去精神で、粗茶でもって、ここを訪れてくれるひとたちを最大限にもてなし続けたい。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。