「人は、自分が見たいものしか見たがらない」

インターネットやSNSが露わにしたのは、そんな身も蓋もない事実でした。

その上で、どうやって自分の「見たいもの」自体を変えていくのか。

従来型の価値観は、これから音を立てて崩れていくことは間違いなさそうで、でもなかなか自分が「見たいもの」は変えられない。

それはなぜか。

変化することが怖いからだと思います。完全に慣れ切ってしまっているものからは、どうしても離れられない。

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この点、歴史を振り返ってみれば、17世紀〜18世紀ごろに主流となった啓蒙思想も、似たような状況下にあったように思います。

啓蒙思想とは、聖書や神学といった従来の権威的な価値観から離れ、理性による知によって世界を把握しようとする思想運動のこと。

当時の知識人たちが、未だ無知蒙昧な大衆たちに語りかけて、それがフランス革命などにも繋がった。

じゃあ、今回もまたそれと同じようなことが起きるのか。

僕は、そんなわけがないと思っています。

インターネットやSNSが誕生したことで、もう一つ露わになったことは、知識人と言われる人たちの中にも、ものすごく凡庸で大衆的な側面が存在するということ。

各分野の第一線で活躍するひとが、単純な陰謀論やフェイクニュース引っかかっている姿、俗っぽいコンテンツに感動している姿などを頻繁に見かけるようにもなりました。

この「大衆的な側面」は、現代を生きる人々には例外なく、誰もが必ず持ち合わせている側面なのだと思います。

情報伝達手段がマスメディアだけだったときは、そのひとの専門的な部分しか社会に向けられて発信されなかったから、誰も気づかなかっただけで。

現代における大衆文化の負の側面というのは、そんな各人の大衆的な部分がネットでつながり、結合することで生まれてきてしまっているのだと思います。

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逆に言えば、どんな人間にも必ず秀でた部分が存在するということでもある。子供でも老人でも、関係ない。

だとすれば、僕らがいま唯一できることはお互いに啓蒙し合うことだけなんじゃないか。

言い換えれば、先日もこのブログに書いとおり、お互いの思考の中に存在する陰影に光を当て合うこと。

壇上と客席に分かれて、知識人が演説し大衆が熱狂するといった固定化された関係性ではなく、全員が車座になって共に考える。

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実際、Wasei Salonのオンラインイベントは、毎回そのような形式で行われています。

この方法を一年半以上継続してきて僕がいま思うのは、言葉(情報)を一方的に伝えようとする場合には決して伝わらないことが、この場ではお互いに伝え合えるということです。

もちろん現場では、言葉が飛び交っているだけです。その様子をzoomにも録画もしているわけだから、映像(情報)を見れば、その様子を追体験することはできます。

ただし、同じ空間・時間を共にして、一回性、その場の限りの思考のジャズセッションのようなものに参加している者同士だけに伝わる何かが、確実に存在する。

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ソクラテスは、自分の考えを文字にしなかったと言います。ブッダも目の前の相手によって、選ぶ言葉を変えたと言います。

固定化された情報だけでは決して辿り着けない境地がある。

今、僕らに必要なのは、そんなふうに共に考える体験であり、そんなふうにお互いに啓蒙し合える空間なのではないでしょうか。

他者の話に耳を傾けることで初めて、自分の「見たいもの」も自然と変わっていく。

そんなことが大切になってきていると考える今日このごろです。