最近ずっと、これからの時代における「タテの共同体」のあり方について考えています。

どうしても、「タテの共同体」と聞くと、僕らは「家」を想像してしまい、血縁関係の強いつながりだと捉えてしまいがち。

しかし、本来、日本においての「家(イエ)」とは、血縁関係を大きく超えた共同体でした。

どちらかと言えば、血縁よりも経済的に生き残るために用いられた、とても流動的で柔軟なものだったようです。

このあたりは、柳田國男の『先祖の話』などを読むと、昔の日本における「イエ」の状況が非常によく理解できるかと思います。

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しかし、そんな「イエ」のあり方は、戦後にGHQによって解体されてしまい、その代わり「会社」という新たな共同体へと受け継がれていきました。

経済的な相互扶助という側面が強かったため、順当に引き継がれていったようです。

そして、僕らの祖父母や両親の世代が、まさにその全盛期だった。

しかし、皆さんもご存知のとおり、今では日本経済が停滞してしまったせいで、会社の負の側面ばかりが悪目立ちするようになってしまいました。

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結果的に、家父長制がもたらす「差別」の問題や、ブラック企業の「労働環境の悪化」など、社会問題のほうばかりが浮き彫りになってしまっています。

そんな社会問題に対して、リベラルな価値観だけが先行して(ネット世論がそれを後押しして)、どちらも解体する方向ばかりに進んでしまっているのが現状です。

それを受けて、誰も本気で次の「イエ」のあり方を探ろうともしていません。

現代の日本において、「家」や「家族(経営)」なんて掲げたら、批判されることは明白で、非常に面倒くさいだけですから、誰も手を出そうとしないのも当然なのかもしれません。

しかし、次の「タテの共同体」の形が定まらない限り、地域も国家も復興していかないことは明白です。

そもそも、この国で「タテの共同体」が存在しなかった時代が近代にはなかったということになるわけですから。

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少なくとも、いま30代以下の世代はもう逃げきれないはずです。

「自分は共同体なんかの助けを必要とせず、個人、もしくは核家族で生き残ることができるようになるんだ!」と息巻いてみても、そんな「グローバルエリート」になれる人間は間違いなくほんのひと握り。

その椅子の数は最初から限られていて、多くのひとは何かしら共同体に属さなければ、経済的にも精神的にも生きていけないはずです。

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これからの21世紀に、僕らが生き抜いていくうえで必要になるそんな「タテの共同体」は、一体どんな形のものになるのか。

作家の若松英輔さんは、先述した柳田の『先祖の話』を紹介しながら、新しい「家」の形をつくっていく必要性を説きつつ、それを「亡き者たちとのつながりを豊かに持ち得る共同体」という風に表現していました。

これは、とっても共感します。

僕らの世代が、次世代のために新たに創造し残せるものがあるとすれば、間違いなくそのような「新たな共同体のあり方」だと思います。

これからも、従来の共同体をひたすら批判して解体し続け、全て壊し切った更地だけを次世代に手渡すのか。

少しでも可能性としての新たな共同体を創り出したうえで、次世代に手渡していくのか。

いま強く僕らに問われていることだと思っています。