「お金」によって、なんでも交換できる時代に僕らは生きています。

対価さえ支払えば、あなたが誰であれ、目の前の商品を手にすることができる。

消費者に、固有性は求められません。

支払い能力があるか否か、だけです。

誰であろうと、100円玉を持ってコンビニに行けば、必ずおにぎりは売ってもらえる。

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このように、資本主義社会によって生まれた市場経済は、すべての物品やサービス(権利)を自由に貨幣と交換可能にしてくれた、それが最大の恩恵だと思います。

しかし、それと同時に「あなた」が「あなた」でなければならない必然性を、この世界から奪い去ってしまいました。

それが、市場経済の功罪だと僕は思っています。

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もちろん、当初はこの社会変化が大きく歓迎されました。

大河ドラマなどを観れば一目瞭然ですが、それだけ身分による「差別」が、僕らが生まれる前のこの世界では横行していたということだったのでしょう。

だからこそ、お金を持つ人間であれば、なんでも手に入る、そんな「機会の平等」に民衆は歓喜した。

みんなで一億総中流社会を目指し、経済を発展させていくことで、誰もが物質的な充足感を満たされるようになり、健康で文化的な生活を送ることができるようになった。

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でも、その結果として、ほかならぬ「私」である必然性だけが、この世界から見事に消え去ってしまったわけです。

その私という固有性が、実は人間にとってかけがえのないものであるということに気づき始めているのが、今なのではないでしょうか。

若い世代が公共空間を復興しようとしていること、共同体を新たにつくろうとしていることも、その無意識的な欲求のあらわれとも言えそうです。

なぜなら、公共空間や共同体においては、発話者の固有性にこそ価値が生まれてくるからです。

「私」が言わなければ意味がない、「あなた」が言わなければ意味がないということです。

全く同じ内容の言葉であっても、ほかならぬ「あなた」であることが、言葉に固有性を生み出し、それぞれ全く異なった意味を持って他者に受け入れられる。

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このように代替不可能な、ほかならぬ「私」として受け入れてもらえたとき、人間は本当の意味で「心の充足感」も感じられるのではないでしょうか。

最近、何度も繰り返し書いている「タテの共同体」の重要性もまさにここにあったのだと思っています。



この世界(時間+空間の座標)における自己の存在、その固有性を必然のものにしてくれる保証が、タテの共同体への帰属感だったのだと思います。

ヨコの関係は代替可能性がゼロになることはありえない。ただし、タテの関係は一度定まると代替不可能です。

自分を産んでくれた両親は、両親以外にあり得ない。だから「ご先祖さま」であることに非常に大きな価値があったのでしょう。

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もちろん、これが行き過ぎると、村社会的になってしまって、ドンドン息苦しくなってしまう。

お互いを束縛することにも繋がりかねません。

でも、摩擦係数ゼロの資本主義経済ばかりでもダメで、摩擦係数が高い共同体や公共空間、そのどちらも存在しないと、人間は本当の意味で心豊かに生きられない。

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これから2020年代に突入する中で、コロナも次第に落ち着いてくることでしょう。

そうすれば、またグローバル化の波が押し寄せてくる。経済合理性、貨幣の論理に則って、世界はまた高速で動いていくはずです。

そうすれば、私という人間の「消費者」的な側面だけが世界から求められ、お金と共に代替可能な「消費者」としてのあなたを切り出して差し出すように求められる。

さらに、これからの世の中では、支払い能力さえなくとも、コンテンツを再生し続ける「視聴者」としてのあなた、再生回数1としての「データ」としてのあなたでも商品が交換可能で、それだけを切り出して差し出すように求められるでしょう。

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そんな「消費者」的で「データ」的な自己を差し出せば差し出すほど、深々とお辞儀をされ、温かい笑顔で社会の中で出迎えてもらえるはずです。

それが現代の資本主義社会における「何者かになれ!」という圧力の正体だったりもする。

しかし、そうすることで固有性のある私からはドンドン乖離していく。埋められない心の溝は深まるばかりでしょう。

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繰り返しますが、市場経済も、公共空間も、どちらも人間にとってはかけがえのないものです。

だとすれば、現代社会に少なくなってしまった公共空間、共同体の復興のほうに力を入れていきたい。

僕は今、そんなふうに考えています。