先日、漫画『チ。 』を読み終えました。

一部界隈で、いま絶大なる人気を誇る漫画です。先日発売された最新巻で完結したのですが、本当におもしろい漫画なので、このブログを読んでいる方にもぜひオススメしたい。(全8巻なので読みやすいです)

ネタバレになってしまうので、あまり詳しいことは欠けませんが、この漫画の中で「迷って、きっと迷いの中に倫理がある。」という名言が生まれていました。

この言葉、非常に素晴らしいメッセージだと思うのですが、一方で少し誤解も生みやすい言葉のようにも感じました。

そんなことをモヤモヤと考えているうちに、タイトルにもある通り、フィクションにおける強烈なメッセージが、受け手に誤解される理由が何となく理解できてきたので、今日はそのことについてブログに書いてみたいと思います。

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この点、漫画や映画など何かしらの「フィクション」は、基本的に会話形式で物語が進んでいきます。

主人公の独り言だけで進んでいくフィクションもときどき存在しますが、それでも観客として眺めている僕らは、主人公が「私」自身と対話している様子を目撃することになる。

とはいえまあ、一般的には2人以上の人間が会話をしていくのが一般的です。

古くは、プラトンの対話篇から近年であれば『嫌われる勇気』まで、重要な教えというのは常に、この対話形式で語り継がれてきました。

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上述した「迷って、迷いの中に倫理がある。」という言葉も、そんな対話の中から生まれてきた言葉です。

1巻からずっとストーリーを追ってきた読者からすると、ストーリーの中でこの言葉を目の当たりにした瞬間に、この言葉自体が紛れもない真理のように感じられてしまいます。

つまり、ものすごく説得力のある言葉のように感じられるわけです。

でも本当に重要なことは、この言葉の意味そのものよりも「誰に対して言った言葉なのか」であり、それ以上に「誰がどんな立場から、言った言葉なのか」だと思います。

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この点、世の中に存在する名言集というのはすべて、その文脈を完全に排除したうえで言葉だけが独り歩きしてしまっている状態です。

でも本当に大事なことは、その文脈のほうなんだろうなあと。つまり、名言集の危うさというのはここにある。

「迷って、迷いの中に倫理がある」と言われると、今は「迷い」よりも「決断」のほうが必要なひとにとっても、この言葉が一番強烈なメッセージとして届いてしまいます。

もちろんこの言葉が必要なひとに、一番必要なタイミングで届く可能性もあるけれど、そうじゃないひとにもたくさん届いてしまう。

つまり、傍観者としての読者の中では、誤読される可能性も非常に高いわけです。

逆に言うと、漫画や映画はストーリーを用いることで、発言が向けられる対象を限定的にしているからこそ、言える(書ける)言葉が多々あるのだろうなあと。

ソクラテスやブッダ、イエス・キリストなど、あえて書物(文字)を残そうとしなかった偉人たちが実際に行おうとしたことも、「フィクション」を用いる場合にだけ、限定的にならば書けてしまう。

ゆえに、古くから対話篇という手法が用いられてきたのかもしれません。

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じゃあ、読み手の僕らは、それを誤解しないためにどうすればいいのでしょうか。

この点、自らが積極的に「対話」に踏み出すしかないのだと思います。そのときに初めて自分に必要なメッセージが他者から届けられる可能性が生まれてくる。

つまり「傍観し続けるな、実践し、対話に踏み出せ」ということです。

この世界に、たったひとつの正解があると思うからこそ、書物にソレが書いてあるのではないかと、古典から新作まで永遠と読み耽ることになってしまう。

でも自らが直接世界に踏み出さないと、他者が他者のために言った名言に、一生振り回されることになる。

自分宛ての言葉を求めて、自ら対話する空間に足を踏みれていくことが何よりも重要なことだと思います。

そのうえで転んでしまうことは恐れるな、自ら誤った価値観を流布してしまうことも恐れるな、万が一間違ってしまったら、その過ちを素直に認めて、修正してまた歩みだせばいいだけなのですから。

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私の「真理」を本気で探求している人間にだけ、どこからともなく今の「私」に必要な言葉が必ずどこからともなく届けられるようになっている。

最後は少し飛躍してしまいましたが、漫画『チ。』を全巻読み終えて、そんなことを思いました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。