僕らの世代も含めて、若い世代のひとたちは、何事においても最短距離で結果を出したいと願っているひとが多いように感じます。
そのためには、自分への自己投資がそのまま「稼げる仕事」に繋がることを望んでしまう。
もちろんそれはそれで、とっても幸せなことだと思う。
でも一方で、散々時間とお金をつぎ込んだにも関わらず、全く実らなかった投資にも同じぐらい価値があると思うのです。
いや、もしかしたら客観的にみた場合、”浪費”にしかみえないような経験のほうが実は遥かに価値があるのかもしれない。
今日は一風変わったそんなお話です。
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自己投資が実るという状況を、ダンスフロアに喩えて少し考えてみたい。
ダンスフロアが一つの「業界」や「ジャンル」だと想定した場合、まずは壁際族から始まり、徐々にその内部のルールを把握していきながら、少しずつ中心に移動していき、最後はお立ち台の上にあがる瞬間が訪れる。
それがたぶん、一般的には自己投資が実ったという状態だと思います。
一方で、投資が実らなかったというのは、お立ち台に登ることを目指して試行錯誤し、ライバルとも全力で争ってみたけれど、何かしらの理由でそのダンスフロアで勝負することを断念してしまうことだと思います。
それは何気なく感じた違和感が原因なのかもしれないし、ライフステージの変化による時間切れなのかもしれないし、断念する理由は様々なはずです。
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そして、家路につくなかで、酔いも覚めて頭が冷えていくなかで、そのダンスフロアという世界の独特な文化や、そこに自然発生的に生まれている異質な構造も、客観的に理解できるような時間が訪れてくる。
この自分なりに反芻している時間、このときに人間は一番成長しているよなと僕は思うのです。
この点、料理において「煮物は冷めるときに、一番味が染み込む」といいますが、まさに人間にとってもそのような状況、このときに人間的の深みが増す時間になっているのだろうなあと。
一方で、お立ち台に立っている間は、ものすごく沸騰しているような状態です。それはそれでとても刺激的ではあるのだけれど、染み込むタイミングかと言えば、決してそうではないと思います。
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この体験を、複数回繰り返しているひとが本当に強いよなと思います。熱狂するだけではなく、客観的に眺める力も同時に持っているからこそ、ちょっとやそっとじゃ騙されないし、人を見抜く力も持ち合わせている。
つまり、周囲が見えなくなるぐらいめちゃくちゃに没頭して、ふっと冷めること。その繰り返しが人間的な深みを増し、「成熟」につながっていくのではないかと思うわけです。
日本の中で挑戦し続けて、そのあとに海外に行くからこそ、日本の異様さを理解できるのと同じこと。日本という国における文化やルールの中でトップに上り詰めようとすると、あくまでそのルールというのはハックする対象でしかない。
ハックしようとしている間は、そのルールをメタ的に理解することはできないはずです。
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「踊る阿呆にみる阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」
もし、唯一阿呆の状態から抜け出す道があるとすれば、「踊る→みる」を何度も行ったり来たりを徹底して繰り返すだけなのではないのかなと。
だからこそ、実った自己投資だけにこだわり過ぎないこと。実らなかった経験に対して、自己嫌悪に陥る必要なんてまったくない。
そもそも経験がいつ実るのかなんて誰にもわからないですし、実らなかった経験から何を学び取り、その経験から何を活かそうとするのかで、自らの人生の深みや厚みは全く変わってくるのだから。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。
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2022/07/11 11:18