先日、NHKオンデマンドで目が見えないひとたちにインタビューしているドキュメンタリー番組を観ました。



この中で何気なく語られていた言葉に、僕は雷が落ちるような衝撃を感じました。

それは「自分は見えていないけれど、見えているひとの楽しんでいる世界を、自分も楽しもうとしている」というお話。

この境地、今の時代において本当に大事なことだなあと思います。

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どうしても健常者の僕らは、自分自身の目で何でもかんでも見えしまっているがゆえに、対象それ自体に対して自らの評価を下そうとしてしまいます。

自分が嫌いなもの(気に食わないもの)は、政治やSNSの力を用いて、この世から徹底的に排除したいと当たりまえのように願ってしまう。

いま行われているような選挙運動やハッシュタグ運動なんて、そんな最たるものだと思います。

もちろんそのような運動によって、社会的マイノリティのひとたちが団結して社会変革を起こしていくことは非常に重要だとは思いつつ、一体どこまで気に食わないものをこの世から排除していけば、その「理想」は実現されるのでしょうか。

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この点、僕が思うのは、ひとには必ず、その「魅力」が自分の目には絶対に見えないものが、この世には存在しているということです。

そして、そのようなものに出会ってしまったときに、僕らが取れる行動はふたつだけ。

ひとつは、対象それ自体を「価値のないもの」だとみなし、徹底的に自分の目の前から排除しようとすること。時にはそれを「すっぱい葡萄」のように誤った評価を下し、ルサンチマンのようにひたすら対象及びその集団を蔑んでいくという態度に出ること。

もうひとつは、上述した目の見えない方のお話のように、自分には絶対に見えないからこそ、見えているひとが楽しんでいる様子を、自分も楽しもうとしてみる態度に出ることです。

「自分にはその”魅力”が絶対に見えない」というまったく同じような状況下であったとしても、自分に及ぼす影響は真逆だと思います。

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相手の「楽しんでいる世界」を楽しむためには、その相手がプレゼン上手であるとか、有識者であるとかはほとんど関係ありません。

子供から老人まで、誰かが一生懸命に心から楽しんで取り組んでいる様子を楽しもうと思えば、必ず面白く感じられるようにできています、不思議なことに。

他者の「偏愛」を聞くのが好きだというひとは世の中に多いですが、彼らは対象それ自体ではなく、誰かが楽しんでいる様子を楽しむのが好きな人であって、上述したようなことをナチュラルボーンで行っているわけですよね。

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他にもたとえば、「洋服」だってそうでしょう。

自分に似合っているかどうかだけで判断したら、この世の大半の洋服は価値がないものとなってしまう。

でも、私以外の誰かが似合っていることを、その似合っているひとと共に楽しむというスタンスに変わった瞬間に、世の中の大半の洋服は、価値のあるものへと変貌します。

だってその洋服は、それが似合う人がこの世に存在するからこそ、この世界に生まれてきた洋服ばかりなのだから。

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対象それ自体の魅力を理解しようとするのではなく、その対象を楽しんでいるひとの世界や様子なんかも含めて、自分自身も一緒に楽しもうとしてみること。

これが本当の共有(シェア)なのではないかと思います。そしてこの場合、「楽しめるかどうか」のいちばん重要な要素は、相手方にあるのではなく、それを受け取る側の自分の心の態度が非常に大きい。

こちらが前のめりであるかどうか、つまり「取材しようとする態度かどうか」でまるっきりその見え方が変わってくる。

参照: 生きるとは、常に「取材」し続けること。

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「わからない」ものに直面した際に、その評価の判断を一旦保留して、相手の「おもしろい!」を一緒に楽しむ。そんなお話は、最新回の「オーディオブックカフェ」でも語っているので、ご興味のある方はぜひ合わせて聴いてみてください。



今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの参考となったら幸いです。