「相手に暴力を振るってはいけない」
「言葉で相手を傷つけてはいけない」
このふたつは、一般常識として広く浸透してきているように思います。
しかし、「目の前の相手に恥をかかせてはいけない、屈辱感を与えてはいけない」ということは、まだまだ一般的には浸透し切っていないように思います。
むしろ、自らの意見が正しければ、いくらでも相手に屈辱感を与えてもいいと思っている節さえある。
僕はその考え方は間違っていると思います。今日はそんなお話を少しだけ。
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どれだけ自分のほうが正しく思えても、どれだけ相手が間違っているような場合であっても、相手に対して屈辱感を与えるようなことは決してあってはならないこと。
それは、物理的な暴力で相手を傷つけることと同じぐらい、とても卑劣な行為だと思います。
そもそも、自分が相手よりも正しい(と信じきっている)その優越的な立場にいることと、相手に屈辱感を与えていいかどうかは全く関係がありません。
にもかかわらず、多くのひとは、そんな立場にいるときは、相手に対して正論を言い放ち、相手を屈服させる権利が私にはあると誤解してしまう。
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もちろん、いついかなるときも「相手に対して名誉を与えよ」ということを言いたいわけではありません。
ただ、本人に気づきや発見を与える程度で十分ではないかと思うのです。
さらに屈辱感を与えて、相手をねじ伏せようとする行為は、ただ相手を罵倒すること以上に、卑劣な行為と言える。
なぜなら、ただ相手を罵倒し傷つけるような言葉は小学生でも言えますが、相手が屈辱感を感じるような言葉というのは、ある程度知性が必要になってくるから。
その知性を一旦身につけてしまうと、美辞麗句を淡々と並べて正論だけを述べつつも、相手を貶めることができるようになってしまう。
つまり、自分の手をまったく汚す必要がなくなるのです。罵詈雑言を吐くわけでもないわけですから、罪悪感も感じません。
だからこそ、大人になり知性を身につけ、賢くなればなるほど、そのような狡猾な言い回しを好むようになる。
でも繰り返しますが、それは非常にタチが悪い行為だと言わざるをえません。
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逆に、自分が屈辱感を与えられても当然だと思えるような場面で、「それでもあの人は私の名誉を守ってくれた」と感じたとき、その経験がどれだけ本人を励ますことにつながるか。
そして、そのような経験から、当人がどれだけ多くのことを学び取るかは計り知れません。
自らの過去の経験を実際に振り返ってみても強くそう思います。「あのひとは私に屈辱感を与えるようなことは決してしなかった」という記憶だけは、ずっと心の中に残っています。
そしてその記憶が、自らの愚かな言動について深い反省を促してくれる。
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一方で、自分が悪いとは理解しつつも、屈辱感を与えられたという場合は「感情の記憶」だけが本人の中に強く残ります。
そのネガティブな記憶が、ときに「復讐心」さえ生み出してしまうこともあるのでしょう。
本当に、本人のためを思い、そして社会(共同体)のためを思うなら、できるだけ相手には屈辱感を与えないように、適切な言葉と態度を選び抜くこと。
相手が完全に間違っていると思うときほど、相手の尊厳を徹底的に守るように努める。それぐらいが丁度いいのだと思います。
あまり賛同されるようなことではないと思いますが、今とっても大切なことだと感じています。
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2021/11/05 10:54