ここ最近、僕がこのブログで伝えたいと思い続けていることは、ひと言でまとめると「ちゃんと成熟しよう、ちゃんと大人になろう」ということなのだと思います。

じゃあ「成熟」とはなんなのか。

この点、内田樹さんの定義をお借りすれば「成熟とは、矛盾に引き裂かれて、その矛盾に耐えていきるという経験を経由することでしか獲得できない」もの。

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では具体的にどうすれば、この矛盾の中で引き裂かれて耐えて生きるという経験の中に、あえてとどまることができるようになるのでしょうか。

これは、他人から急き立てられることではないはずです。

でも、居心地が良いからという理由で、自らとどまろうとするような場所でもない。

少なくとも子供にとっては決して居心地の良い場所ではないですからね。

だから、普通だったら積極的にとどまろうとは思えない場のはずなのです。

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こればっかりは、自分の中でさまざまな体験を通して、この「矛盾」の中に身を引き裂かれ続けることを選び取ることに対し、スッと納得できる瞬間がやってくるのを待つしかない。

タイミングが何になるのかは人それぞれ。どのような経験がその人の引き金になるのかは誰にもわかりません。

ただ、この矛盾に引き裂かれる体験が、決してネガティブなことだけではないと思える瞬間が、世界の半分ぐらいの人にはきっと訪れるはずなのです。

そして、そのことから目を背けず真正面から向き合って、この中にとどまり続けよう、バランスを保ち続けようとするひとたちが、さらにその中の一割ぐらいいるはずです。

そこまでちゃんと辿り着けると、目の前の世界は一気に広がっていくのだと思います。それが「大人の入り口」です。

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そうすると、とっても不思議なことなのですが、実はずーっと昔からあのひともこのひとも、手を替え品を替え、この中に身を置くことの重要性について語ってくれていたことに気づきます。

これまでは古臭くてカビの生えたガラクタのようにしか思っていなかった過去の作品や言葉の数々が、そんな大人の入り口に立った自分へと向けられた、とてつもない「贈り物」なんだと気づくことができるようになる。

逆に、現代の社会の中で「これが正解だ!」と叫ばれているような話は、本当に今この瞬間にしか叫ばれていないこともハッキリと理解できるようになる。

それが一時の「時代の流行」で終わってしまうのか、「普遍のスタイル」まで昇華されるのかは、未来のことだから誰にもわかりません。

でも、すでに人類の叡智として「普遍のスタイル」として確立していることは、山ほどあるのだということには気づけるはずです。

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ただし、何度も繰り返すように、こればかりは自分の中で気づくしかありません。

「矛盾の中に生きろ!」と、他人にとやかく言われたとしても、嫌なものは嫌です。

自分で気がつくまではひたすら待ち続けてくれる、そんな「場」が必要になってくる。

縁側に座って一緒にお菓子でも食べるようなテンションで、本人が発見するまで淡々と待ち続けてくれるそんな場所。

多くを語るでもなく、ひたすら聴き続けてくれるわけでもなく、ただ一緒にそこからの景色を眺め続けてくれるひとたちが集う空間です、

今足りないのは、そんな空間なのだと僕は思います。