「神は存在というより、働きです」

先日、NHKで遠藤周作没後25周年の番組が放送されていて、この言葉は遠藤周作の『深い河』に出てくる一文として紹介されていました。

これを見た瞬間、本当にそのとおりだなあと衝撃を受けてしまいました。

どうしても僕らは、「神(のようなもの)」は外部に、もしくは自己の内側に、確固たるものとして存在していると思いがち。

でも、きっと実際はそうじゃない。

ソレは存在ではなく「働き」であり、運動そのものなのだと思います。

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これは「正義とは、今の正義がまた別の正義に置き換わる可能性を秘めている、その反証可能性が常に公平に担保されている状態のことであり、その連綿とした運動全体を指すこと」に、とてもよく似ている。

そう考えてくると、道徳や倫理というものも、そもそも人間や社会の中に初めから内在しているものではないのかもしれません。

ある要件が整うと、自然とそこに立ちあらわれてくる何かなのだと思います。

それまではどこにも存在していなかったのに、人々が「対話」するなかで自然と「働き」として周囲に帯びてくるもの。

もちろん、悪だって全く同じです。

関係性の中で、自然とその働きが当事者同士の中で帯びてしまうもの。きっと、本人の意志や悪意などは、まったく関係(関与)していないのだと思います。

ただ、刑法のように個人の「責任」概念を持ち出して、それに従って国家を運営していかないと、社会が円滑に機能していかないから、「自由意志」のようなある種のフィクション(幻想)を僕らは国民全体で受け入れて生きているにすぎない。

道徳や倫理も、場にあらわれる「働き」や「運動」によって100%左右されていると言っても過言ではないのでしょう。

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だとすれば、やっぱり僕らにできることは、その働きが発露する場(空間)を淡々と掃き清めることだけなのだと思います。



ひたすらそこに帯びる瞬間を待ち続ける。それがいつ訪れてもいいように。

これは、スポーツにおけるゾーンを待つ感覚にも似ている。

意図的にゾーンに入ることはできないけれど、いつゾーンに入ってもいいように常日頃から自身の身体を鍛えて準備しておくことはできますよね。

運動経験がない人には、睡眠に入るときを思い出してみると、より理解しやすいのかもしれません。

健やかに眠るために、僕らはその準備としてありとあらゆる手段を講じることはできます。ただし、睡眠に入るその瞬間は誰にも決められない。

ある一定の状況が整えば、自然と眠りに入ることができるのだと体感しているだけ。

しかし、どれだけそれらの要件をすべて整えてみたところで、一向に眠れない日もありますよね。

睡眠のように毎日繰り返している自分事でさえ、その「働き」を「待つ」ことしかできないようになっているのです。

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さて、こうやってなんとか言葉にしようとしてみても、その本質からドンドン遠ざかるだけのような気がして、なんとも歯痒い気持ちでいっぱいです。

でも、今の僕の語彙力ではこのような方法でしか表現することができない。本当に分かりにくくて、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

それでも、今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、なにかしらの発見や気づきにつながったら幸いです。