「もし、8時間で木を切り倒せと言われたら、私は7時間で斧の刃を研ぐことにあてる」


このエイブラハム・リンカーンの名言をどこかで聞いたことがあるという方は、非常に多いと思います。

僕も学生時代に法学部に通っていたとき、教授から聞かされた記憶があり「論文のテストにおいて、まずは構成をハッキリと定める、そしてその骨格が定まったところで、一気に書き始めることが大切だ」と教わりました。

1時間の論文のテストだった場合、最初の40分で構成を練りに練り、最後の最後の20分で一気に書くこと。

このように、最初から書き始めないことの重要性を、この言葉を通じて伝えられたように思います。

その後の人生においても、さまざまな書籍の中でこの文章を目にしてきました。

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で、このリンカーンの話って、人生という自分にとっての「一番大きな事業」においても、まったく同じことが言えると思うのですよね。

にも関わらず、多くの人々は、個別具体的なプロジェクトにおいては、この重要性をちゃんと自覚してそれを適用しているにも関わらず、人生においては、まったく真逆の戦略を取ろうとする。

具体的には、この重要性をちゃんと理解しているひとたちであっても、若いうちから何か焦って早い段階で成果を出そうとしてしまう。

でも本当に大事なことは、まず「斧の刃を磨くこと」だと思うのです。

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じゃあこのとき、自らの刃となりそうな自己投資、具体的には「勉強」ばかりをすれば良いのかといえば、決してそういう話でもないかと思います。

もちろん、資格試験や語学、プログラミングみたいなものばかりを追い求めるのも違う。

それでは、ただの頭でっかちな状態になるだけだろうなあと思います。

じゃあ、本当の意味で、刃を磨くとはどういうことなのか。

この点において、今度はアインシュタインの名言が参考になるかと思います。

「もし私がある問題を解決するのに1時間を与えられ、しかもそれが解けるか解けないかで人生が変わるような大問題だとすると、そのうちの55分は自分が正しい問に答えようとしているのかどうかを確認することに費やすだろう。」


こちらも、ほぼ同じことを僕らに教えてくれている思います。

で、つまり「斧の刃を研ぐ≒問いを考える」ことなのだと思います。

また、同様にドラッカーも似たようなことを語っています。

「重要なことは、正しい答えを見つけることではない。正しい問いを探すことである。間違った問いに対する正しい答えほど、危険とはいえないまでも役に立たないものはない。」


つまり、本当に重要なことは、一般的な答え(社会的な成功)に辿り着こうと躍起になることよりも、自らが本当に探求するべき問いに対する答えにたどり着くための「正しい問い」にちゃんと巡り合うこと。

それこそが、本当の意味で刃を研ぐことにつながっていくはずなのです。

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さて、ここまで読んできてくださった方々の中には、こんなふうに思っている方も必ずいると思います。

「そうはいっても、やってみなければわからないだろう」と。

他にも、「それは、いつまでもやらない言い訳になるだけだ。人生なんて、いつ終わるかはわからないんだから」というような。

そのような批判が必ず飛んでくることも、重々承知しています。

そして、このあたりのお話はつい先日も書きました。「行動するべきか否か」という話において、万人に共通のアドバイスというのは存在しないと思います。


ただ、そのような批判を言い訳にしながら「正しい問い」に到達することをサボっているひとも同時にかなり多いように思います。

具体的には、自らの問いが曖昧なまま、世間的な成功ばかりを追い求めるひとたちです。

その結果として、社会の中のくだらないニュースばかりに惑わされる。行き当たりばったりのことに取り組んでいるだけで、何かをやったつもりになってしまう。

そのうち、社会的に認められる結果も出すことができてしまって(そう結果が必ず出るんです)、ますます本質的な事柄からは遠ざかっていく。なぜなら、まわりも似たように惑わされているからです。そのものさしが自分にもあてがわれるだけ。現代ならフォロワー数とかはわかりやすい指標ですよね。

でも、そうやって社会的に成功しても、自らの人生の問い自体が間違っていたら、何の意味もないんです。それはかけちがえたボタンみたいなもので、そのボタンはかけちがえたままドンドン上へと登っていってしまう。そして気づいたときにはもう取り返しがつかない状態。

何よりも行動が大事だと語るひとたちに対しても、「あなたにとって一番大切な問いはなんですか?」と聞いてみれば、多くの方が口ごもるかと思います。もちろんそれは、僕自身も例外ではありません。

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だからこそ、本当に大事なことは「何が自らが問うべき問いなのか」それをはっきりと明確しようと努めること。

「より本質的なことは何か?」というふうに、その「問い」自体を問い直す。

実際に自らやってみて、これは違うと思ったら、しっかりと立ち止まり、その方向修正を行うことです。

「もう飽きた」と言って投げ出すのは子どもと同じだけれども、問いを明確にするために一度、立ち止まったり撤退をしたりすることは、とても大事なこと。同じ中断であっても、そこには雲泥の差があると僕は思っています。

つまり、僕らが日常の中で確認するべきは「打ち手の有効性」ではなく「問いの有効性」の方なんですよね。

大事なことは、この確認作業を何度も繰り返すことのほうだと思う。

ここが今日、本当に強く伝えたいポイントでもあります。

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そして、それを自らに問い続けていると、必ず何も前には進まない空白の時間が、必ず30代〜40代のうちにやってくる。

なぜなら、走りながらでは到底考えることができないほどに、問いの有効性を問わないと行けないタイミングが必ずやってくるからです。以前も書きましたが、ブッダやイエスなんかもそうだったのだと僕は思います。

また、僕は西郷隆盛も好きで、西郷隆盛も30代の頃、約5年近く島流しにあった時期があったようなのですが、西郷もこの空白の時間に具体的に何をしていたのかは歴史上、あまり定かではないそうです。

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じゃあ、彼らが共通して、この空白の期間に一体何をやっていたのか。

僕は、決して何か仰々しい一般人には理解不能な「悟り」のようなものを得たわけではないと思います。

むしろ、この世界における、本当に問わなければいけないこと、自らの責務と思えるような問いとは何か?をこのタイミングでしっかりと発見したのだと思うのですよね。

言い換えると、世界の構造、その問題点とボトルネックになっているものは何かをちゃんと見定めるというような形で。

もちろん、その問いの解決方法は、やっぱり取り組んでみるまでは、最後の最後まで決してわからない。でも、このボトルネックを認識せずに場当たり的な行動をしていても、最終的には意味がないのです。

それは常に、表面的なことに惑わされてしまうだけですから。

それは、まさに昨日も書いたような話にもつながってしまい、一見すると「自由」を追求しているようで、実際には表面的な「自由」に惑わされて、自由自体を誤解することにもつながりかねないのだろうなあと。

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若い頃の自らの人生経験を通して、問いのヒントをたくさん探してみる。そのうえで、先人たちの知恵に学びながら、本当に私自身が取り組むべき問いとは何かを明確にする。

人生100年時代なのだから、何ひとつ焦ることはないかと思います。

最後にまとめると、問いの有効性を評価し続け、行動と反省を繰り返しながら前進していくこと。

このサイクルを続けることで、より良い結果と成長がきっと自らのもとに訪れるはずです。

そのためにも、まずは「問うべき問い」を明確にし、それに対する答えを追求することが本当に大切です。そして、その過程で研ぎ澄まされた「斧」が、最終的な「木」を効率よく切り倒すための最良の道具となってくれるようになるはずです。

もし短い人生において、たとえその木が倒れるところまで到達できなかったとしても、その磨かれた斧というのは、必ず次世代へと受け継がれていくはずですから。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。