先日もこのブログの中でご紹介した河合隼雄さんの『おはなしの知恵』。
この本の中に、日本人なら誰もが知っているであろう「花咲爺さん」のおはなしも取り上げられていました。
この「花咲爺さん」における河合隼雄さんの考察が、とても学びの深いものだったのでこのブログでもぜひご紹介してみたいと思います。
決してかたい話ではないので、連休中における気分転換にでも読んでみてもらえると嬉しいです。
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さて、河合隼雄さんは「花咲爺さんは自分の意思にこだわらないから、逆説的に、人生が前進している」という非常に興味深い話を書かれていました。
さっそく本書から少しだけ引用してみたいと思います。
この爺さんのもうひとつの特徴は過去にこだわらないことである。大切な犬が殺される。しかし、それについて隣の爺さんと争うよりも、犬を葬ってやってそこに木を植えることに心を使う。 臼 を燃やされたときも、その灰をもらってくる。過去にこだわったり、不幸な出来事にこだわったりせずに、そのことを受けいれて、それを前進の手がかりにしている。老人が過去にこだわり出したり、「せっかく……したのに、駄目になってしまって」などと嘆き出すと、ものごとが停滞しはじめる。
この視点は、本当におもしろい視点ですよね。
そして、たしかに言われてみれば、花咲爺さんに過去にこだわったり、争ったりするような姿勢はほとんどない。わざわざ言われないと気づけないほど、あまりにも自然に執着を手放しているので、この指摘に逆に驚かされてしまうほどです。
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一方で、現代人の多くは、自分なりの「こだわり」を持つことが、どんなジャンルにおいても良しとされています。
なぜなら、その強い執着心や執念のようなものが、ひとつの生きる原動力となって、ものごとや人生そのものが「前進」していくと思っているからです。
そして何よりも「こだわり」こそがそのひとの個性であり、その「個性」が承認欲求や他者の耳目を集めるための手段となって、タレントやインフルエンサーのような仕事にも結実しているからだと思います。
「◯◯が好きすぎて、それが仕事になっちゃいましたー!」みたいな状態に若いひとほど、憧れがち。
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また、一方で何か自らの強いこだわりや欲望を捨て去ったひとたちに対して「世捨て人」というレッテルを貼って、そこにネガティブな意味合いが込められているシーンというのも、最近は同時によく見かけます。
そのように生きてしまったら、みるみるうちに生きることに張り合いがなくなってしまって活力も失われて、自らのたった一回しかない人生が前進していかないんじゃないかという不安や恐れみたいなものが、その言葉から透けて見えるなあと。
でも、河合隼雄さんがおしゃるように、何かに強くこだわってしまうとむしろ、逆に停滞してしまうのです。
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ゆえに、もしかしたら、「こだわり」を手放すことのほうが、ものごとは前進していくのかもしれない。河合隼雄さんは、ここにこそ「老人の知恵がある」というふうに語ります。
再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。
前進する、と言えばむしろ若者のこと、と考えられる。しかし、この爺さんは自分の意思や意図に従って前進しようと努力しているのではない。動物の声に従ってみたり、思いがけない不幸をそのまま受けいれて、その流れに従ったりして進んでいく、ここに老人らしさがあり、若者のそれとは一味違ってくるのである。これをやり抜こうとか、こうしなくてはならない、というような若者らしい前進の姿勢と異なり、そこには老人の知恵がある。ものごとを進めてゆく原動力を自分の意思におくのではなく、犬の意思や、隣の爺さんの行為の結果などにおいている。
ここでは花咲爺さんのお話を頭の中で思い出しながら、読んでみてほしいのですが、本当にそうですよね。
あと、僕が個人的に感動したのは、隣の悪いおじいさんの話です。
このおじいさんがいなければ、ここほれワンワンのあの犬だって死ぬことはなかった。本当に「こいつさえいなければ…」と思わされるような最悪な爺さんではありますが、逆にこの犬の死がなければ、花咲爺さんの物語も始まっていかない。
花咲爺さんは、ただ、犬と仲良く暮らしていた普通のおじいさんになってしまいます。何も話は「前進」せず、です。
愛犬が殺されてしまうというような悲しいことが起こるくらいなら「前進」しなくてもいいと誰もが思うかもしれないけれど、万物は流転するわけで、起こるべきして起こるわけです。
犬の死だって、例外なく、いつかは必ず訪れます。
一番最高の幸せな瞬間、幸福な瞬間のようなものを、まるでスクショを取るように保存をし、いつまでもその余韻に浸ることができれば最高かもしれないけれども、そんなことはそもそも不可能です。
今この瞬間も、身近な人々や、愛するペットのような存在も、生きとし生けるものは刻一刻と死へと向かっている。もちろん、それは自分自身も例外ではありません。
そう考えたら、起きることはすべてを受け入れつつ、そのなかで「こだわらないこと」は本当に大事なことだなあと思わされます。
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この点、現代の若い人々を中心にありがちな悩みに「やりたいことが見つからない。モチベーションが続かない」という悩みを本当によく耳にします。
その原因は、もしかしたら、その原動力を自分の内側にある「こだわり」みたいなものに求めすぎているからなのかもしれません。
その自らの内側から自然と湧き上がってくる「やりたいこと」や「モチベーション」こそが、原動力の本質であり、ガソリンであるというような。
でも、ここで河合隼雄さんが語るように「原動力」を、自分の意思に置くのではなく、周囲の環境の変化のほうに置いてみること。
これも、昨日書いた「打ち手の有効性ではなく、問いの有効性の問題」にもつながるのだと思います。
自らにはいかんともしがたい外部の出来事や、人々から力を得て柔軟に進路を修正しながら進むことこそが、真に「前進する」ということなのかもしれません。
自分の意思の力だけを頼った場合には、その原動力はどこまでいっても1倍にしかならない。そのうえで、自分の中のこだわりや原動力がしぼんでしまったら、何一つ人生は前進せず(と誤解してしまって)、その現状において鬱状態に陥るのも当然のことだと思います。
でも周囲には、自分以外の生物や、運動エネルギーのようなものはありとあらゆる形で常に偏在していて、その原動力というのは、本当に無限大です。
ここで花咲爺さんのような「老人の知恵」を働かせることができれば、枯れ木に花を咲かせることだって可能となるわけですよね。
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だからこそ、本当に大切なことは「自らに問われていること」と「自らの問い」の掛け合わせのほうであって、人生にレバレッジを効かせていくというのは、そういうことだと僕は思います。
決してS&P500のインデックス投資みたいなものに投資をすることだけが、他人の力を借りた「投資」ではない。
特に、現代社会のように変化が非常に激しく、何が起こるか予測不可能な状況も多い世の中においては、過去や現状に囚われず、柔軟に対応しながら前進していく能力は、非常に価値のあるものだと感じます。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。