先日、配信されていた哲学者・苫野一徳さんのVoicyが本当に素晴らしい内容でした。


現代なら、モラハラやパワハラで一瞬にして訴えられそうな内容だけど、最高の師弟関係だなあと思いながら僕は聴いていました。

気になる方は、ぜひ本編を聴いてみてください。

で、このお話を聴きながら僕が思い出したのは、作家の橘玲さんの「体罰教師と、熱血な道徳教師どっちが正しいのか?」というお話です。

それがどんな話だったのかと言えば、たとえば生徒がタバコを吸ってしまった場合、現代における熱血な道徳教師は、真摯に生徒と向き合い、優しく「もうやらないよね…?」と生徒の道徳心に訴えかけようとする。

一方で、体罰教師は、生徒の顔面をひっぱたいて、体罰によってタバコを吸わないようにと仕向ける。

このような状況下において、あきらかに体罰は「悪」だけれども、体罰教師は生徒の魂(道徳心)には決して手を突っ込まない。

一方で熱血教師は、生徒の魂に手を突っ込んで、自分にとって都合の良い方向へと改心させようとするのだ、と。

どちらが本当の意味で“暴力的に”本人の思想信条に踏み込んで介入しているのかというお話です。

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たしかに、このように問われてしまうと、意外と一概にどちらが「悪」なのかは、わからなくなってきます。

生徒の魂を尊重して、傷も残らないような体罰程度でとどめてくれる大人の方が意外と優しいと考えるひとたちが一定数いても、あまり違和感はないよなあと思う。(もちろん、それでも僕は絶対に体罰には反対だけれども。)

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で、この話は学校の教育の問題にするから、ちょっと実感がなくてわかりにくいかもしれないのですが、たとえば一市民が自らの正義心に燃えて「国家転覆罪」をはかったというような状況で考えてみたいです。

そのような人間が国家権力に捕まったあと、無期懲役で死刑にされる国と、数々の心理的な圧力をかけて、愛国教育を受けさせられて洗脳され、最終的には娑婆に戻され、代表的な善良な市民として振る舞わされるのか、このような違いで考えるとわかりやすくなるかもしれません。

もちろん、死刑にされる国のほうが体罰教師で、愛国教育をして矯正してくるのが道徳教師のほうです。

前者の場合は、国家権力によって殺されるけれど、私の正義には一切踏み込んでこない。あなたの正義はこの世界の正義と折り合わないから黙って死んでくださいねと言われるだけです。言い換えれば、殉死は許される。

一方で後者は殺されないけれど、私の正義を否定し、洗脳してこようとする。殉死さえも許されない状態です。まさにジョージ・オーウェルの『1984年』の世界観。

果たして、本当の意味でどちらが暴力的で、どちらが倫理的なのか。意外とむずかしい問題だなと思います。

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で、そんなことをモヤモヤと考え続けているときに、先日、学校帰りの小学5年生ぐらい女の子4人組と結構、長い時間、信号待ちで隣り合わせになりました。

その時、彼女たちのコミュニケーションの内容が女子大生みたいになっていてなんだかビックリしてしまいました。具体的には、ひたすらお互いに「そうだよね、そうだよね」と言い合っている感じ。

見た目は全員違う色のランドセルを背負っていて、それぞれのお母さんが好きそうなバラバラな格好をしているのに、子どもたちの個性のへったくれもない印象を受けたんですよね。

この点、一般的には制服や統一されたランドセルの色って、何か型にはめるものの典型と揶揄されがちだけれども、むしろ僕らが子どものころは(自分が行っていた小学校は制服がある学校だった)、それに従ってさえいれば「内心の自由」はいくらでもあったように思います。

でも今は、見た目の個性だけが重視されて、それがバラバラだからこそ、むしろ内心や行動、魂のほうを無意識に周囲と揃えたくなっちゃうんだろうなあと。

これも、ある意味で「体罰教師と道徳教師」の話みたいなもので、どっちが本当に子どもにとって個性的でいられる状態なのか、という意味においては、なかなかにむずかしい問題だなと思います。

子どもたちを個性的に育てた過ぎるせいで、その客観的な条件ばかりに注目し、見た目に現れやすいランドセルや洋服を自由にさせたがる、そんな大人たちのエゴのようにも感じてしまいます。

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そして、この話の流れで、この具体例を出すのはキラキラ女子の戯言みたいでなんだかとても恥ずかしいのですが、

ココ・シャネルが修道院にいた時代に、制服のスカートの裾を少しだけ短くしていて、でもそれがあまりにも自然だったから、シスターたちは誰も何も注意できなかった、という逸話が僕はすごく好きなんですよね。

まさに内心の自由というか反骨精神、真の個性というのはこのような制約の中に宿るはずだと思うからです。

「何でもあなたの好きに、自由に選んでいいよ!」という圧倒的な自由のように見せかけた状態というのは、「私に忖度しろ、さもなければ〜」というありとあらゆる心理的な交換条件を実は含んでいるはずだからです。

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さて、ここまで書いてきて今ふと思い出したのは、以前もご紹介したことのある、内田樹さんと白井聡さんの対談本『新しい戦前』という書籍の中に書かれてあった、ネット上で最近増えてきた「査定者」という非常に狡猾な立場のお話です。

再び、本書から少し引用してみたいと思います。

内田     ネット上では「あなたはその言葉をどういう意味で使っているんですか」というタイプの絡み方が多いですよね。これはきわめて 狡猾 な問いの立て方で、いきなり「回答者」と「採点者」という非対称的な権力関係を持ち込んで来る。それだと相手がどう答えても「違う」と応じることができます。一見すると、知的な態度を偽装していますけれども、目的は対話でも議論でもなく、査定なんです。自分が「査定する立場」を先取するために形式的に質問している。こういう「小技」に長けている人がほんとうに増えてきましたね。だから、僕はネットでの匿名の問いかけには一切返事をしないです。

ほんとうに生産的な議論がしたかったら、「あなたがその言葉をどういう意味で使っているのか、もう少し詳しくお話しいただけませんか」と促して、しばらく黙って聴く。相手の言い分の当否については暫定的に判断を保留する。それが対話における基本的なマナーだと思うんです。自分には自分の意見があるが、それは「いったん 括弧 に入れて」おく。それができない人ばかり増えてきた。


今、子どもたちに対して親や教師が行っているのは「何でも自由に選んでいいよ」と言いながら、この「査定者」の立場を取っているような状態なのだと思います。

子どもたちが自由に選んでいるようで、実は親や教師など周囲の顔色を子どもながらに伺わせて、ひたすらその忖度精神を養っているだけ。

これは河合隼雄さんの『おはなしの知恵』にもつながる話で、教師は生徒の「おはなし」を聞くためには、自分の「おはなし」の基準を一度カッコに入れて、相手の「おはなし」の立場に立つ必要があるはずなんですよね。

でも、現代の大人たちはそれをしようとはしない。形式的な「多様性」ばかりを追い求める。

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この点、僕は自分自身が中学生の時代に、教師に呼び出されて叱られているときに言われた言葉で、今でも昨日のように鮮明に覚えている言葉があります。

それが「おまえはなんでも『はい、すみません』と言えば済むと思っている。その態度が気に食わない」という言葉です。

この言葉を言われたとき、僕は必死で自己の内心の自由を守っていただけです。

もしあの言葉につられて反抗して一瞬でも歯向かえば、暴力を振るわれることも理解していた。実際、僕が通っていた中学校は、あたりまえのように生徒に手を出しているような学校でした。

そして、教育大学附属の国立中学校だったので、当然のごとく制服や校則は厳しい学校です。

でもそのおかげで、校則さえ守ってさえいれば、心の中で一体何を考えていて、どれだけ心の中で教師や学校という組織に中指を立てていても許されていた。

許されていたと言うか、彼らも許さざるを得なかったのだと思います。それが教師と生徒の間の絶対のルールであり、学校内の「法律」だから。

こちらとしては、学校側が決めたルールに従ってちゃんと行動をしているんだから、それ以上の介入はしてくれるな、と堂々と言える。それが「はい、すみません」の意味でもありました。

つまり、「◯◯さえ遵守していれば、何をしていようが問題ない」という状態のほうが、意外とその範囲内においては子どもは完全に自由であるし、それ以上は絶対に侵害できない。

僕は当時から、それを必死に子どもながらに守っていただけです。

教師からしてみると、本当にいけ好かない生徒だったとは思いますが、教師と生徒という圧倒的に非対称な関係性であっても、それが学校のルール(法律)なのです。生徒が自らの弱い立場を守る唯一の方法。

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でも、今の学校は「生徒の自主性を尊重しよう!」という偽善的な建前から、何でも子どもたちに自主的に決めさせようとする。

そして、それを守らなかったときには「自分たちで決めたルールだよね?それを守らないの?」と優しく諭すことができてしまう。

でも繰り返しますが、その自由はいつだって「査定」されているんです。本当に狡猾な手口だなあと僕は思います。子どもの自由を尊重する気なんて最初からまったくない。

進学や校内の成績、そもそも子どもたちの居場所など、ありとあらゆる「査定」の基準を教師や親が握っている限り、子どもたちが大人たちにとって、都合の良い決断をするほかないと知っているうえでそうしている。

戦時中の思想警察や、現在の香港の警察なんかがやっていることその本質みたいなものは一緒だなあと思います。

もちろんこれは学校に限らず、会社や地域コミュニティ、国家などにおいても、どの規模感の共同体であってもまったく同じことが起きることだと思います。

「自由とは何か」を本当の意味で考えたくなる事案が最近立て続けに続いたので、改めてこのブログにも書いてみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。