今朝、こんなツイートをしてみました。

どうして譲るのは「私」であって「あなた」ではないのか。

これは本当に難しい問題です。

野暮だと思いつつ、少しだけこの問いについて考えてみたいと思います。

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思うに、この話は逆の方向から考えてみると、たぶんわかりやすい。

与えること、譲ることが約束されているからこそ、その人がそのポジションにいてもいいと、世界から許されているのだと思います。

たとえばわかりやすくカフェの席を思い浮かべてみてください。

今、この席を与えたらお客さんに一生占有されると思ったら、カフェのオーナーは絶対にその席を与えないはずです。

一時的な利用に限られていて、あとから来る人に譲ってくれるだろうと期待されるから、その席を貸し与えて、そのお客さんはカフェの空間を享受できるわけですよね。

もちろん、カフェのオーナー自身も、そこをカフェの空間として訪れるお客さんに与えてくれると周囲から期待されるから、そこでカフェをオープンすることが許されている。

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ほかにもたとえば、豪華客船の船長は、なぜ船長として乗船することができるのか。

それは、万が一事故が起きても、最後のひとりになるまで、自分以外の他者に救命ボートを譲り続けることが期待されているからです。それができる人間、つまり「紳士」であるという期待が、彼を船長に抜擢させた。

もっともっと極端な話、そもそもどうして私たちはこの世界に生きることが許されているでしょうか。

それは、いつか絶対に死ぬことが決まっているからです。この世界から消えてなくなり、次の世代にこの世界を譲ることが確実に決まっているから。

だからこそ、逆説的にこの世に生きることが許されている。永久に生きつづける存在には、そもそもこの世界での生は認められないはずです。

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従来の社会の中で、「紳士」や「貴族」の役割もまさに、この「必ず譲る」という期待があったからこそ、そこに居座る権利が一時的に周囲から与えられたにすぎない。

しかし、今の権力者はその地位に居座ることしか考えていません。他者に譲るなんてもってのほか。

だからこそ、彼ら(男性一般)の信頼は地に落ちてしまった。

また、そのような日常を当たり前のように目にするようになったため、僕らは自然と公平性の観点を強く追い求めるようになり、常に「相対性」のことばかり論じるようになってしまったわけです。

その結果、何事においても証拠(エビデンス)を求めるようになってしまった。「あなたが差し出すなら、私も差し出しますよ」というように。

ときに家族や最愛の相手であっても、このような交換条件を求めてしまうのが現代人なのです。

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こうなってしまった最大の要因は、やはり市場が広がりすぎたせいだと思います。具体的には人と人とが繋がりすぎた。

その雑踏の中で生まれる匿名性をうまく利用して、短期的に他者から奪う人間が得をしてしまう世の中がしばらくのあいだ続いてしまった。

しかしそれも、変化の狭間だから起きた一時的な傾向に過ぎないのだと思います。

また必ず与える人間が復権してくる。譲ることを期待される人間が、より多くのチャンスを任されるようになる。

きっと今後は、テクノロジーの力がそれを実現するように促すことになるでしょう。中国では、すでにそれが実用化され始めていますし、ブロックチェーン技術も必ずそれを後押しするようになるはずです。

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でもやっぱり、社会の変化やその実現を待つのは、完全に野暮なことだと思います。

どんな世界であっても、今この瞬間から「私」が始めていくこと。

待つことは、やっぱり何かしらの交換や保証を求める行為に他ならないわけですから。

「相対性」が存在せずとも、自分から能動的に譲れるようになること、それがこの世の中の真理を本当の意味で理解していくことに繋がっていく。

そんなことを考える今日このごろです。