「オーディオブックは、アメリカでは浸透しているけれど、なぜか日本ではなかなか浸透しない」

ここ10年間、ずっと解明されていない謎です。

一般的な理由は「アメリカは車社会で、オーディオブックを聴くまとまった時間と空間があるから」。

つまり、生活習慣(車移動)と生活環境(車内)がその原因だと。

じゃあ、日本でも習慣と環境さえ整えれば、オーディオブックを聴く習慣が生まれるかもしれない。

実際、僕自身もノイズキャンセリングヘッドホンで環境を整え、移動中や散歩習慣などまとまった時間を確保することで、「オーディオブックのある暮らし」が身につきました。

だから「オーディオブックに興味がある」という人には、習慣と環境のアドバイスばかりをしてきました。

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でも最近、本当の理由は異なるのかもしれないと思うようになりました。

一番大きな原因は「日本語特有の難しさ」にある。

まずひとつは、日本語は漢字とひらがなとカタカナ(外来語)の混合であること。

そしてもうひとつは、四字熟語や慣用句、同音異義語などが日本語の中には多く存在すること。

つまりは「語彙力」の問題です。

英語に比べて、聴く読書に求められる語彙力のレベルが圧倒的に高くなるのです。

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たとえば、オーディオブックの場合、「どはつてんをつく」と音声だけで流れてきたときに、頭の中でスッと「怒髪天を衝く」と漢字に置き換えた文字列を思い浮かべて、かつその意味合いを理解しなければいけない。

これがテキストであれば、初めから漢字とひらがなのセットで書かれていて、意味はなんとなく「あー、どうしようもないくらいに怒っているんだろうな」ぐらいはある程度想像がつくかもしれません。

でも、音声だけではそれが不可能です。

だから日本語を音声だけで理解するのは、実は非常に難易度が高いのです。英語とは比べものにならない。

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でもこれって、人と人とがおしゃべりしながら対話する時も、まったく同様なのではないでしょうか。

相手が喋っていることを脳内変換して、相手の語彙力と同レベルか、それ以上の語彙力を身につけていないと、そもそも日本語でのコミュニケーションが成立しない。

だからこそ、日本人は初等教育段階で、暗誦や読み聞かせ、朗読が必須科目のように行われていたのでしょう。

でも近年はペーパーテスト対策ばかりで、それさえ満たすことができれば、あとは本人の自主性を伸ばすために好きなことをとにかく自由に学ばせようという風潮が強いです。

そんな中で、日本人が自分と異なる分野(価値観)の本を聴けなくなるのは当然ですし、その結果として、日本人同士で対話が成立しなくなるのも当然です。

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この仮説を立ててからは、オーディオブックを聴ける人と自然と対話が成立してしまう謎も理解できました。

F太さんを筆頭に、オーディオブックを普段から利用している人と話していて「いや、そんなこと言ってないじゃん!」と思わされるような嫌な思いをしたことは過去に一度もありません。

最初は「趣味や価値観が近いだけなのかな…?」と思っていましたが、たぶんきっとそうじゃないのです。

お互いに相手の言っていることを理解して、対話することができる者同士だからなのでしょう。

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一方、現代ではYouTubeの視聴を筆頭に、映像と喋り言葉、そして字幕があって初めて理解できるという人々が増えています。マンガ文化も同様でしょう。

こんなことを偉そうに書いている僕も、明治や昭和の文豪が書いたオーディオブックはなかなかに聴きにくい。

ふだん、日常的に自分が用いている言葉ではないからなのだと思います。彼らの語彙力にまったくついていけていない自分がいる。

きっとこの現象とまったく同じことが、現代人同士の会話の中でも起きている。日本語だからなんとなく理解できた気でいるけれど、実はそれぐらい相手にとっては意味不明なのだと思います。

であれば、そもそも言っていることが伝わらなくて当然だし、対話も成立しなくて当然です。

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そう考えると、「多様性」の実現は、単純に日本人の語彙力を鍛えるだけでも、その大半は実現するのかもしれません。

もしくは、これからのテクノロジーの進化によって、相手の日本語を「やさしい日本語」に置き換えてくれて、私に適した日本語としてインプットしてくれるサイボーグになってしまうのが先なのか。

自分の中でいろいろと腑に落ちることだったので、今日のブログにも書いてみました。

オーディオブックは対話における聞く訓練にもなるので、改めてオススメです。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。