今朝、こんなツイートをしてみました。

これを受けて若い人たちは、ただ単純に「歳を重ねても、若い世代の価値観を否定せず、寛容であればいいだけ」と思うのだろうし、自分もそれを実行し続けていく自信があるのだろうと思います。

けれど、歳を重ねれば「歩くこと」のような単純な動作でさえ不自由になりうる可能性が高いのに、どうしたら「思考」だけがそんなに自由であり続けるなんて思えるのだろうか。

僕にはそんな想定は不可能です。

だからこそ、今の自分の状態からは全く想像がつかないけれど、自分がそうなる可能性も踏まえて、周囲のコミュニティや社会を設計していきたい。

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きっとこの話ってたぶん、歳を重ねると「カルビが食べられなくなる、完徹できなくなる、大それた夢を語れなくなる」みたいな話とも非常によく似ていると思うのですよね。

10代の頃の自分には、全く想像もできなかったけれど、ちゃんと年齢を重ねれば私にも訪れる老化現象のひとつであるというような。

もちろん、歳を重ねても、若いころと何も変わらずにそれができるというひともいるでしょう。

でも、70歳を超えても若い頃と変わらずに長時間歩き続けられる人が稀有なことと同じで、努力で成し遂げているひとたちは確かにいるけれど、その可能性はかなり低いと。

その低い可能性を求めて、全員にそれを目指せというのはあまりにもナンセンスです。

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この点、どうしても、若いうちは単純な進歩史観に支配されてしまいがちです。

「古いものが間違っていて、新しいものこそが正しいのだ!」と。

なぜなら、20代のうちは「自己の身体」の変化がまさにそのように変化していきますからね。どんどんできることだけが増えていき、自分の目の前の世界の景色も無限に広がっていく。

でも、本当はそうじゃない。歴史はただ繰り返すだけなのです。

周囲を取り巻く環境が、歴史と共に多少変化するだけで、人間の悩みや不安、快楽でさえもただ繰り返しているに過ぎない。

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じゃあ、私たちに未来を変える能力はないのか。

いやそんなことはなくて、そのためには「お互いに理解し合っていくこと」に尽きるのだと思います。

そうやって、少しずつ自分たちの手で負の連鎖を断ち切っていくしかない。

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たとえば「お酒の強要」なんかは、とてもわかりやすいかと思います。

僕らの世代あたりから明確に、この悪習慣を次の世代に引き継がせないと願ったから、少しずつ変わってきている。

こうやって、私たちは自分が想像しうる「他者の痛み」に寄り添うことでしか世界を変えることはできない。

「もう次の世代には引き継がせたくない、ここで断ち切っていく」そんな相対性を求めないひとりひとりの強い意志だけが、歴史を変える可能性を秘めている。

参照: どうして譲るのは「私」であって「あなた」ではないのか。

だとすれば、高齢者批判、理解のない人間を自分とは全く異なる奇怪な生物とみなして罵倒するのではなく、それが未来の「私」かもしれないと想像して最大限に寄り添っていくほかない。

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でもそういう変化が世の中に増えてくると、途端に世界にはそんなものだらけに溢れていると発見できるようになってくるから不思議です。

私たちの身体的、精神的な変化に合わせた無償の贈与が至るところに広がっていると。

それは焼肉屋さんのメニューで、10代の頃にはカルビしか目に入らなかった私が、30代になってハラミのメニューもバリエーション豊かに準備されていることに感動するように。

「いつかカルビ食べられなくなる私のために、ハラミも最初から用意してくれていたんだな」と。

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その相互理解が「私はひとりじゃない、理解者がちゃんとこの世界には存在している」という安心感にもつながっていく。

後からやってくる「私」、未来にそうなるかもしれない「私」への最大限の想像力と思いやり。

ひとりひとりのそのような行動が、遠回りのようで、より多くの人間を包摂していく未来へと変えていくための唯一の道なのだと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。

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