最近ネット上で、以下のようなまとめ記事が話題になっていました。
近年、ちょこちょこ話題になるこのテーマなのですが、現代のインターネット空間を象徴している話だなあといつも思います。
そして、これはきっともう不可逆なことでもある。
良くも悪くも、直接本人に自分の意見や発言がカンタンに届いてしまうのが、現代のオープンなインターネットの宿命なんだろうなあと。
そしてだからこそ、クローズド空間の重要性も以前にも増して、グッと高まっていくんだろうなあと。
今日はそんなお話を少しだけ。
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この点、もちろんSNSの勃興当初、今から約15年ぐらい前は、直接本人にエンドユーザーの声が届くことのメリットのほうが圧倒的に大きかったわけです。
僕自身も、ブログで何度もその革新性について言及してきました。
実際、僕もブログやTwitterでつながったひとたちは数しれずで、そこから広がった幸運な出会いなんかも山ほど体験してきました。
だからこそ、SNSはのオープンさに対して熱狂していた一人でもあったわけですが、でも今は、それよりも圧倒的にデメリットのほうが大きくなってしまったなと感じている。
最近よく耳にする意見として「本人及び、その周辺の人々、そして熱狂的なファンの人々に私の意見は直接は届かなくて良い、届いてしまうとむしろ面倒くさいから、なるべく本人には届かない形で書いている」という意見をよく耳にします。
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このような意見は、いちブロガーとして、僕も本当にとてもよくわかる話だなあと思っています。
それゆえに、僕も最近はもう、ブログやVoicyのタイトルには著者名や書籍名などを入れないようにしています。
最近はエゴサしている著者も多いから、本当にエゴサで直接本人に届いて欲しいと願うときにしか、タイトルや検索に引っかかりそうな場所には、くれぐれもその固有名を入れないようにしている。
そしてなるべく本人には気づかれない場所で、ひっそりと書くようにしているんです。
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じゃあ、なぜこんなにも、直接届くこと自体が「厄介な現象」 になってしまったのか。
書き手にとっては読者の声は最初は珍しかったと思うのですが、現代においては、そのような一方的な好意みたいなものも与えられて当然という認識になってしまっているからなのだろうなあと思います。(これもひとつの「愛」の厄介さ。先日のおのじさんの対談の中でも、ご紹介したお話のとおりです。)
だからきっと、余計に多少のノイズや自分にとって気に食わない意見や解釈のほうばかりに目がいってしまうのだと思うのです。
少しでも自分のメッセージと異なることを書かれると「俺はそんなこと書いていない!私はそんなことは言ってない」と言い放つのが、最近は本当に当たり前になりましたよね。
発信者であれば、誰もが自らにそんな抗弁権があると思っている。
いや、実際にあるんです。それがSNSというオープンな空間の強み。
突然、見ず知らずの相手から何かしらのリプライが飛んできたり、名指しで批判されて、それがエゴサする中で目に入ってきたんだから、そういうことを言う権利はあると思うのは、何も間違っていない。
僕自身も自分が書いたブログやVoicyに対して、過去にはそのような対応をしていたと思います。
でも今は、どれだけ誤読されていても特に取り上げもしないし、完全にスルーしている場合のほうが圧倒的に増えたなあと思います。
だってそれは、ただの誤読かもしれないわけですから。そして、読解力なんて本来はひとそれぞれなはずなんですよね。
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で、現代は書き手側や著名人側が、そのようなスタンスだとわかっているから、なおさら踏み込んだ感想や批評を公の場で書くことが、ドンドンとむずかしくなってきている。
◯◯さんと敬称をつけて、相手がどのタイミングで読んだとしても、何も問題がないように未然に対応した書き方をするほかないわけですよね。多少の思考実験さえも許されない状況です。
でも、もちろん、自分が感じたことや思ったこと、モヤッとしたことはちゃんと書きたい。こ
だから、多くの人は、閉ざされた空間の中において、それを書くようになっていくはずで。
僕の場合は、もちろんこのWasei Salonがその場所にあたります。
つまり、残念ながら今はインターネット上には書いているけれども、それが著者や著名人には届かない空間のほうが貴重になってしまったわけですよね。
言い換えると、オープンで何を書いても世界中に届くという開放感よりも、そのオープンさゆえに一体誰に見られているかわからないという自己検閲のほうが、現代においては深刻な問題なんだと思います。
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一方で、サロン内であれば、最大限の敬意を込めて、著名人を呼び捨てにできる。
この場に、その本人がやってくることはまずないわけですから。
またTwitterやInstagramやYouTubeのように、相手と同じ土俵、舞台上ではなく、あくまでもひとつ奥まったプライベートな空間であって、研究室やラボみたいな隔てられた空間であることも明確なわけです。
もし万が一、そこまでわざわざ覗きにきて「敬称がついていないじゃないか!」と怒る人がいるとしたら、もはやそれはただのクレーマーだと思います。
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さて、ここまでの話を一旦整理すると、インターネットが広く普及した現代の問題点は、本人の目に入ったときに、自分の真意がちゃんと伝わらずに、気を害してしまうかもしれない。
それが著者本人のSNSアカウントで引用RTでもされて、フォロワーや信者たちの反感を買ってしまい、予期せぬ炎上を招いてしまうかもしれない。
それを恐れて最初から忖度をしてしまう。僕はそれが非常にもったいないことだなあと思います。
他人、特に本人とその著者の熱狂的で盲目的なファンたちのまなざしを感じ取って、先に自己検閲しているような状態なわけですからね。
もちろん、本人に対する敬意と配慮は大切だとは思いつつ、まずは自分が感じたことを素直に率直に書ける空間があるということは、いつどんな時代においても、とても大事なことだと思うのです。
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ゆえに、Wasei Salonの読書会なんかでは、素直にそれぞれのモヤモヤポイントなんかもしっかりと共有するようにしています。
これは読み方によっては「影でこそこそ悪口を言っているのか」と思われてしまうかもしれないのですが、でもそうじゃないんですよね。
もともとの書籍の意味に立ち返り、その書籍の「公共財」的な側面を正しく活用しようということなんだと思っています。
ここが今日一番重要なポイントでもあります。
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この点、先日もご紹介した、橋爪大三郎さんの『人間にとって教養とはなにか』という本の中に興味深い話が書かれてありました。
図書館という空間の機能について説明している文脈の中で、図書館は「知の公共化」「知の自由化」をしたという話が語られていて、本というものは本来、公共的で自由なものであるという大前提を語ってくれていました。
以下で本書から少しだけ引用してみたいと思います。
本は本来が、公共的で、自由なものなのです。
本を読むのに、著者に断らないでもいい。著者の家来や友達にならなくてもいい。勝手に読んで、勝手に引用して、勝手に批判してよいのです。本は、人間関係や社会関係から切り離された、知のやりとりである。風通しがいい。
私たちは本に慣れていて、本があるのが当たり前だと思っているので、本のこうした性質に改めて注意が向きません。そのすぐれた特徴を噛みしめたいものです。
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橋爪さんがおっしゃるように、著者に忖度しなくてもいいのが、本の良いところ。いちいち著者の家来や友達にならなくてもいいんです。
それがすでに世に出版されている以上、相手にへりくだる必要がないことが、本のいいところなわけですから。
にも関わらず、公共物を未だに完全に相手の私物のように扱ってしまっている部分が、今のオープンなSNS上には間違いなくあるなあと思います。それが◯◯さんという部分に、滲み出ている。
何度だって繰り返しますが、もちろん著者に対して敬意を払うことは大前提として大切だと思います。
でもそれがあまりにも過度な忖度となって「これが、相手の目に入って誤解されたらどうしよう…」と不安になりすぎて、書きたいことを書けなかったり、オブラートに包みすぎて一体何が言いたいのかわからない状態は、完全に本末転倒だなあと思う。
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橋爪さんは、このような図書館のような機能が、マルクスの『資本論』や、レヴィ゠ストロースの『親族の基本構造』などを生み出したという話を語られてもいて、「昔から少しずつ時間をかけて進んできた知の自由化と民主化の流れが、この一冊の本となって届いた。私たちが手にするどの一冊の本にも、それだけの価値と苦しみと喜びがこもっているんです。」というふうに書かれていました。
これもものすごく大事な視点だと思います。
しっかりと読み手や受け手側が公共財として用いて、多様な議論が広がっていくこと、それが何よりも一番大事なことだと思うから。
それを行われるのが嫌なひとは、そもそも本なんて、公共財を世に出すべきではない。
子どもがすでに成人しているのにもかかわらず、どこまでも子どものあとをつけて、いつまでも親がしゃしゃり出てくるような状態にも近いわけですからね。
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「この空間以上の外側には広がっていかない、検索にも決してひっかからない」というクローズドの空間内の価値が、逆に大きな価値を持つようになってきたのが今現在のインターネットだ、というのが今日の結論です。
そのクローズドの空間内で繰り広げられる議論を外に持ち出した場合は、大きなペナルティが待っているだろうという予測可能性があることも、もちろんとっても大切で。
だからこそ、オープンな場においては、気を使ってしまうような多少極端な思考実験をしても、ここなら許されるだろうという期待が働くはず。
でも、何度だって繰り返しますが、そこには大前提として、敬意と配慮と親切心、そして礼儀がオープンな空間以上、参加者全員がフラットに持ち合わせていて、人類全体別け隔てなく尊重されていることが大事なんです。
このあたりは完全に矛盾していると思われるかもしれないけれど、その矛盾があるからこそ、我々は自由闊達な議論ができるんだと理解しているひとたちが集まっていることが、本当に大事なことだと思っています。
そのような空間において初めて、いま僕らが本当に欲している”調和”のようなものが立ちあらわれてくるんだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。