最近は、以前ほどあまり人気のない習慣の力の話。

その理由はきっと、習慣化して淡々と実行する人間よりも、その努力を批判的に眺めながら、他人の習慣を冷笑し、論破する態度が幅を利かせるようになったから。

でも再びまた、習慣の力が日の目を浴びるようになってくると僕は思っています。

それは最近頻繁に言及しているプラグマティズムの文脈において、改めて習慣の力について強く実感するようになったからです。

今日はそんなお話を少しだけ。

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まずは、以前もご紹介したことのある宇野重規さんの『民主主義のつくり方』という本から「習慣」について言及されていた部分を少しだけご紹介してみたいと思います。

以下でご紹介するのは、プラグマティズムの創始者として知られるチャールズ・サンダース・パースの宇宙観の話です。

「第1のもの」としての「混沌」、そして「第2のもの」としての法則、それらをつなぐための「第3のもの」として習慣の力があるというお話に、僕はものすごく強く感銘を受けました。

以下、引用となります。

パースにとって、この宇宙の最初にあるのは偶然性であり、混沌であった。それは無秩序であると同時に、自発性や独創性の源でもある。これをパースは「第一のもの(The First)」と呼んだ。     
(中略)
「第一のもの」が偶然性であるとすれば、「第二のもの」とは何か。それは法則である。すなわち、偶然性のなかからやがてある種の規則性が生まれ、原因と結果とが一連の事象として連鎖してつながっていく。このような規則性は最終的に法則へと行き着くことになるが、パースの考えでは、いっさいの偶然性が消滅し、すべてが法則によって完全に結晶化したとき、世界の終わりが訪れることになる。     

しかし、何がこの「第一のもの」と「第二のもの」、すなわち偶然性と法則を媒介するのだろうか。そこで登場するのが、「第三のもの」である習慣化の傾向である。自然のなかにある偶然性の自由な戯れから、やがて習慣化の傾向が生まれるが、そのような傾向はいったん生じると自分自身の力を強化し、進化の性質をもつようになる。     このようなパースの宇宙生成論を一言でまとめれば、「宇宙の構造は秩序(コスモス) と無秩序(カオス) との相互作用によって生まれ、それを媒介したのは 成長する習慣形成の力 であった」ということになるであろう。


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この3つの関係性は、言われてみると本当にそのとおりですよね。

秩序、つまり意識だけでもダメだし、無秩序、つまり自然や身体性だけでもダメ。

その3つ目の要素として習慣があるというのはめちゃくちゃ腑に落ちる説明だなと。

ここでさらにおもしろいのは、未来における行動との関連で、習慣は意味を持っているんだという続きの部分です。

一般的に僕らは習慣というのは、未来の自分の積み重ねであって、それは過去〜今にかけて意味があると思いがちなんですが、実際には、未来にこそ、その役割が発揮されるのが、習慣の力であると。

こちらも僕は読みながら非常に強く膝を打ちました。

再び本書から、引用してみたいと思います。

ここで重要なのは、習慣が過去からのしがらみよりはむしろ、未来における行動との関連で意味をもっていることである。言い方を変えれば、ここでいう習慣とは、いつの間にか身について、変えることのできなくなった習癖ではない。むしろ、未来においてある状況に遭遇した場合に、あらためて考えるまでもなく「このように行動するであろう」と言い切れることが重要なのである。     例えば熟練した船長であれば、海上でいかなる暴風に出遭っても、慌てることなく適切な指示を出すことができるだろう。このような意味で、未来においていかなる状況が現れるにせよ、その人の行動がある程度予測可能であるとき、それは習慣によるものなのである。


これはもう、今この文章を読んでいるひと全員がそうだと思うのですが、僕らは最近、JALの飛行機事故、あの奇跡の生還を目の当たりにしてこの習慣の力をまさに実感したわけですよね。

日々、JALの人々が避難訓練を繰り返し、それが習慣となっていたから、あの奇跡は起きるべくして起きた。

そして、更におもしろかったのは、この習慣は修正されつづけるものであるのだという話も同時に書かれてありました。

むしろ、習慣の実践で生じた結果を踏まえて、人は習慣をたえず修正をしていく。その意味で、習慣には自己修正的・自己批判的な要素が含まれているのだ、と。

これは、東浩紀さんの「訂正可能性」の話にもつながってくるなと思いながら、僕は読みました。

「習慣」が本当に意味を持つのは、きっとここの部分なんですよね。

先ほどのJALの飛行機事故の話に戻すと、あの事故について特集をしていた「クローズアップ現代」の中でも語られていましたが、後方の避難経路を開けるかどうか、一瞬の現場判断が求められていたそうです。

事故で機体が前方に傾いていたので、もしかしたら非常脱出用のあのすべり台のような装置が、地面につかないかもしれない。

でも、それを試してみないと、後方の人々の命が助からない可能性がある。だからその非常出口を担当していたCAさんがご自身の現場判断によって、その非常出口を開いたそうです。

結果、無事に地面にギリギリ接地して難なくを得たのだと。つまり、実際に、やってみたことが功を奏したわけです。

となるときっと、この体験を踏まえて、今もまたその訓練(習慣化)の内容がこのような場面においての経験を踏まえた内容に書き換わっているはずです。これまでと同じ訓練が、繰り返されているわけではない。

繰り返しになりますが、習慣というのは、その習慣化によって実行された経験、その反省を踏まえて、常にアップデートされていくものであるわけです。

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さて、さらに、この習慣化の話は、先日もサロン内でご紹介した「刺激と反応のスペース」の話にもつながっていくと思います。

具体的には「刺激と反応の間には、スペースがあり、そのスペースをどう使うかが人間の成長と幸福のカギを握っている」というあの話です。

もう完全にこのスペースのその正体が「習慣」であることも、きっと気づいていただけると思います。

ここで、パースと並びプラグマティズムの立役者でもある、ウィリアム・ジェイムズの習慣論の話にもつながってくる。

以下で再び、本書から少しだけ引用してみたいと思います。

心理学者であるジェイムズは、習慣を私たちの刺激に対する反応という視点から捉えた。人間の神経経路は、ひとたび確立されれば、ある程度同じようなパータンで反応するようになる。結果として、人の反応はある程度、予測可能で反復可能になる。     例えば運動である。歩くことから始まって、水泳にしても、自転車にしても、最初はあらゆる動作がぎこちない。人は実際に自分の体を動かすことで、一つひとつの運動の過程を学び、最終的にはほとんど無意識で行えるようになる。いったんその習慣が身につけば、最初にそれを行おうとする意志をもつだけで、あとはスイッチが入ったように自動的に体が動くようになる。     


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で、これは東洋哲学の中の文脈で行けば、そのまま仏教における「修行」を重視するスタンスにもつながってくるなあと感じます。きっと似たようなことを言っている。

仏教は、知識だけでもダメで、実践していないと意味がないと語られます。そのためには、修行に勤しむ必要がある。

余談ですが、ダイエットなど自らとの約束を破った人が恥ずかしそうに「煩悩に負けました」とよく語るけれど「煩悩に勝てる」と思っていることが一番の誤りで。

「煩悩に勝とうと思うな」という親鸞の話は本当にそう思います。

逆説的なんだけれど、日々立ち現れ続ける煩悩に勝とうと思って躍起になることが、煩悩に負ける一番の原因でもあるなと僕は思います。

じゃあどうすれば良いのか。煩悩はいつまでも消え去ることはなく、だとすればその生々流転し続ける煩悩をどう対処するのかの問題であって、まさに習慣の問題です。

仏教は、それを修行を通して、未来において煩悩が湧いてきた状況に遭遇した際に、あらためて考えるまでもなく「このように行動するであろう」と言い切れるところまで対処する力を身につけようとする。

そもそも、「悪い習慣」っていのは、盲目的な行為であって「これは悪いことなんだ、無意味なことなんだ」と頭でわかっていたとしても、気がついたら、いつのまにかやってしまっていることを、指しているはずなんですよね。

だからこそ、修行を通じて良い習慣を身につけることが大切で、それが「悟り」に繋がっていくという話だと、僕は理解しています。

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さて、今日語ってきたように、プラグマティズム的な視点を持った「習慣」を共に実践していくというスタンスが、これからは本当に大切になってくるんだろうなあと思いました。

先行き不透明の時代で、どんな危機が起きるかわからないからこそ、訓練として習慣の力を利用し、備えておく必要がある。

そして、その習慣を日々実践する中で、起きた良いことも悪いことも、両方踏まえてその結果における「有用性」に応じて、常に習慣自体も書き換え、より善いものへと訂正していくこと。

それが、きっと本当の意味で、我々の未来を変えていく。

偶然性・法則性・それらをつなぐ習慣の相互作用を実感し、探求し、深めていける場所がいま重要であり、他人から横槍を入れられない空間というのが本当に大事だなあと思います。

もちろん、それがこの場であったら、とっても嬉しいです。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。