僕は、自分が書いたブログの内容や、自分が書いたタイムラインへの書き込みの内容を、自分自身が完全に覚えていないということが頻繁にあります。

昨夜のWasei Salonのイベントの中でも、まさにそうでした。

で、以前までは、結構これがコンプレックスの時もあったんです。

自分が本当に大事だと思って毎日全身全霊で決して少なくない時間を投じて書き綴っているわけですからね。

それを書き終えて満足し、完全に忘れてしまっているような状態というのは自分でもいかがなものなのかと思っていました。

あとは、トークイベントなどでせっかく来場者のお客さんが、懇親会の時とかに言及してくれても、自分がすっかり忘れていたりするわけです。また、会食などで目上の方もいるような席で自分のことを紹介しようと気を使ってくれた人が「あのときに書いていたあの話、ここでもう一回してください」と言われて、まったくその話を自分が再現できなかったことも何度もあります。

そんなときは、本当に申し訳ないなと何度も感じましたし、恥ずかしい思いも何度もしてきました。

なんて自分はこんなにも記憶力がないんだろう…と絶望していた時期もあったわけです。

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でも、最近は、きっとこれで良いんだろうなあと思っています。

いや、むしろこれがいいんだろうなあとさえ思うときも多いです。

頭の中にモヤモヤとあるから、ひとはいつまでたっても忘れられない。姿かたちが見えないからこそ、そこにいつまでも執着し、居続けてしまう。

でも、そのモヤモヤの正体を一つずつ糸を手繰り寄せるようにしながら、整理をして言語化をしていくと、その全体像のようなものも次第に見えてくる。

逆に言えば、全体像が把握できないから、それはいつまでも自分の頭の中で少なくない面積を占有し続けるんです。

1日の決まった時間、決まった習慣の中で、それを自分なりに考えてまとめてみて人に説明できるような状態に一回してみることで、綺麗さっぱり忘れられて、次のテーマに移ることができるなあと。

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そして更に重要なことというのは、とはいえでも、ここで完全に忘れているわけではないということなんですよね。

これが、本当に毎回めちゃくちゃ説明がむずかしいなとも感じてしまいます。

上述したように、一度アウトプットしたことによって見事に完全に忘れているのですが、それでも、一度まとめたことがある内容だと勝手にその引き出しが開いてしまう瞬間が突然訪れる。

それは、引き出しのほうから勝手に開くイメージなんですよね。

「今、ここに大事なこと、関連することがありますよ!」と、公開した文章の方から叫んでくれるような形で、です。

これを、自分が書いたことを覚えようとして暗記しようとしてみてもなかなかうまく行かなくて、そうすると逆に「開かない引き出し」になってしまう。

でも、一度書いて完全に忘れていると、人と話していたり、トークイベントやWasei Salonの対話会のような場面においても、それがふと勝手に開いて、わーっとそこに書いてあることプラスアルファで、今考えていることを加味しながらお話することができるんです。本当に不思議なことなんですが。

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もちろん、そのときに、はっきりとすべてを思い出せなくても何らかの手がかりさえあれば、サロン内検索やテキストエディタ内で検索をして調べれば、すぐにヒットするから、実際に、後からそれを自分で読み返すこともできる。

そうすると、こことここがつながるんだ!っていう発見が遡行的に得られるのです。

今は、このような状態が生まれるような循環を日々淡々と作り出すことのほうが大事だなあと思っています。

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これはまさに、自分の考えや主張に生命を吹き込むような感覚に近いんですよね。

そして、あとはその生命のほうが勝手に動き出すのを待つだけ。

これって妄想じみた話だと思われてしまうかもしれないけれど、今だと意外と現実味のある話だなとも一方で思うのです。

なぜなら、これからは、まさにその生命的な役割を、AIが担ってくれるから、です。

以前、落合陽一さんも何かの動画の中でおっしゃっていましたが、自分の過去に考えたことはもうAIが勝手に形にしてくれる。

だから、自分のアウトプットをしてきたひと、それがネット上に公開されているひとと、そうじゃないひとにわかれてきて、そのアウトプットがある人はあるひとなりの戦い方、ないひとはない人のなりの戦い方が必要であるというような話をされていました。

これは、本当にその通りなんだろうなと思います。

僕は、本当に毎日ようにブログを書き続けてきて、Voicy上にも音声として、それが残り続けている。

これが今後は、自分の代わりに自分の役割を果たしてくれるようなタイミングも間違いなくやってくるのは、もう時間の問題だと思います。

そうすると、文字通り本当に、引き出しの方から勝手に開いてくれて代弁してくれるどころか、それが自分に対して、問いかけてくるようにもなる。

もうひとりの自己が、今の自分に対して語りかけてくるかのように、です。

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だから、これからは「忘れるために書く」という行為が本当に大事なんだろうなあと。

そして逆説的なんですが、それが絶対に忘れさせないでいてくれるという状況を生み出してもくれる。

きっと、人間の身体というのは、もっともっと考えるためにあるはずで。

そしてこれは以前もご紹介したことがありますが、「『かんがえる』とは、決して自己の単独行為ではなく、身体を「媒介」に環境と「交わる」呪術的な行為」だという能楽師・安田登さんの考えるの定義を思い出してしまいます。

僕はこうやって、頭や脳も含めて、自らの身体を「あわい」として用いることが、これからはとっても大切になってくると思います。

それをできるようにしてくれるのが書くという行為だし、それに追随して革命的なことを起こしてくれるのが生成AIなんだろうなあと。(もちろん、僕らがまったく予期もしなかったようなヤバいことも、これからいっぱい起きるはず)

あと、少しメタ的な話になってしまいますが、この安田登さんの話もまさに以前書いたことがあったから、すぐにこうやって引っ張ってこれたりもするわけです。

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最後に、真面目なひとにありがちなのは、自ら書いたことなのに忘れていることに対して、強い自責の念を持ってしまう人も多い気がしています。

でも、経験上それを責め立てるひとなんていない。

「忘れました!」と言っても、みんな笑って流してくれます。

自分で言語化して、自分で主張したからには絶対に覚えていなければいけないということでは決してない。

たまたま偶然、そのときにその方が考えていることと運良くオーバーラップすれば、ずっと覚えていてくれるかもしれないけれど、それはまさに時の運なわけです。

大体のことはみんな忘れている。そんなものなんです。それはきっと、どんな作家さんであっても、似たような状況にあると思います。

誰もが知るような名著も、ハイライトされているところは大体決まっていて、引用される部分も同じで、それ以外のことは読み手も書き手も、みんな忘れている。

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でも、それがきっと地に根をはるために必要な作用を及ぼしていることも間違いないはずなんですよね。だからその忘れ去られたものにも間違いなく意味はある。

そして、ここから「最後の審判」のような形で、忘れ去られたものがまたブワッと息を吹き返し、現代に生き返ってくるのかもしれない。

AIによって、そんな未来が目前に迫っていることを考えると、諦めず、いつ何がどのような形で芽吹くかわからないのだから、そんな祈りを込めていつ何時であっても常に「種蒔くひと」でありたいなあと僕は思います。

誰にも見つけられず、自分さえも忘れているようなタイミングで、その芽は、ひっそりと時代の何処かで芽吹いているのかもしれないし、未来永劫一生芽吹かないかもしれない。

それは、現段階においては本当に誰にもわからないのだから。人間にできることは、そのあわいを楽しみ続けること。そんなことを最近はよく考えています。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても何かしらの参考となっていたら幸いです。