今朝、話題になっていた北海道ニセコの時給が東京の時給を超えたというニュース。
こうやって、賃金が上がっていくことは本当に素晴らしいことだと感じます。
でも一方で、時給換算したら東京の以下の金額でも楽しそうに宿業を営んでいるひとたちが世に多くいるわけで、賃金を高くしてもそれでも人が集まらないのは、また別の理由もありそうだなとこのニュースを観ながら思ってしまいました。
この職場では、お金は人並み以上にもらえても単純に「やりがい」がものすごく低そうに感じられてしまったりもするのかなと。
この仕事についても、本当に「お金」だけしか得られないんじゃないかと思ってしまうというような。
具体的には、世界中の素性のわからない富裕層の人々の相手をさせられて、そこに心が通った「人と人との交流」があるわけでもなさそうで、多少賃金が他と比べて高くても、その高額な宿泊費の大半はオーナーなどの資本家に持っていかれているんだと思ったら、やりがいなんて感じられないと想像しても当然で。
「だったら、ネット上でアフィリエイトや仮想通貨、NFTなんかでも触って、小銭稼ぎをするほうがいい。そっちのほうが時間的にも精神的にも自由で楽だし」っていう若いひとが多いのも当然な気がします。
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この点、最近よく思うのは、雇い主側は、若い人が求めている「やりがい」や「つながり」をもっともっとちゃんと把握したほうが良さそうだなあと。
資本家や政治家たちは、経済合理性で人間は動くと思いすぎな側面は間違いなくある気がします。でもそれは、食うに困る時代の論理であって、家族を養う必要がある一家の主(主に男性)が世間の大半だった時代の論理です。
現代は、特段良い生活と家族を望まなければ、明日も今日と同じ日々が続くという安定した仕事は、いくらでも存在する。それこそネットだけでも完結する。
だから、どれだけ自分たちに旨味があろうとも、明らかに資本家が搾取しているような状況を嗅ぎ取ったら、そこから距離を起きがちです。
それよりも、現代の若いひとたちは、公平性の観点をものすごく強く優先する。
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そんな精神的な公平感という豊かさを求めて、その構造や違和感の方に敏感になっても何もおかしくないと思います。
あとは、彼らは、人とのつながりもとても大切にする。
そもそも、本当にただ金払いが良いだけの外国人の富裕層の接待を本当にしたいのか?っていう話だと思うんですよね。
言い換えると、明らかに相手は自分たちを、安い国の安い労働者と見下してきて、そこにさらにアジア人差別なんかも透けて見えているときに、本当にそのひとたちに心のこもったサービスしたいのか?という話なんです。そこに自らの裁量権もない中で、です。
もっと過激な言い方をすると、どれだけ素晴らしい待遇がそこにあっても、奴隷労働であることとさほど変わらないようなな状況下に自らが望んで参加するのか、みたいな話なんですよね、きっと。
一方で、心の通った奴隷制度の中にも、お互いに人間の尊厳を尊重し合った人と人とのつながりがあるような関係性もまた、過去の歴史上においては、間違いなくあったのだと思います。
生まれや人種によって役職や身分の固定化はあっても、その中でお互いがフラットな関係性を築き上げて人間の尊厳をしっかりと認め合うというような。
それは日本の歴史でも全く同じで封建制度時代だって、そういう領主がいた逸話が現代までたくさん残っているのは、その証だと思います。
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昨今、やりがい搾取という言葉があまりにもニュースで取り上げられすぎて、それが問題視されて槍玉に挙げられたがゆえに仕事からドンドン「やりがい」ばかり失われていっているような気がします。
そのかわり、他の会社と比べて、高い給与さえ払えばいいと思っている。
でも、そんなわけがないんですよね。逆説的ですが、「やりがい搾取」という言葉がそれを強く物語っている。
なぜなら、ひとはやりがいがあれば、搾取されるような構造にでも自ら望んで参加するという意味合いが込められた言葉でもあるのだから。
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これは、国家行政に対して「大きな政府と小さな政府、そのどちらが良いのか」みたいな議論と一緒だと思います。
今の企業は、とにかく給与を上げるから、やりがいは自分たちでどうにかしてくださいという方向に、完全に舵を切ってしまったように僕には見えます。
これは、小さな政府そのものです。新自由主義と批判されるような流れでもある。
だから、雇用される側は自然と「副業」の方に向かうわけですよね。人間としてのやりがいをもとめて、です。
実際、副業文脈においては、副業先として人気の企業が労働の対価が高い企業や団体に偏っているのかと言えば、決してそうではない。
なんなら、オンラインサロンなどへの積極的な参加も、副業文脈であると捉えれば、人々はむしろ、自らお金を払って身銭を切ってまで、参加しているわけです。
ゆえに、資本家や経営者側は、若い人々を中心にいま本当に求められているものは何かを、今一度もっともっと真剣に考えた方がいいと僕は思うんです。
お金が欲しいわけではなく、今日はきっと明日よりも豊かになる、その「希望」が欲しい。それが、お金だと叶いやすいという時代が長かっただけであって、その要素は決してお金だけではない。(もちろんお金もめちゃくちゃ大事)
その希望や人とのつながりをつくってくれるところに、若い人を中心に、いま人が集まっているように思います。そこに対して若い人はものすごく飢えているように見える。
だから、それがどれだけ数字や言葉のマジックであって、幻想やまやかしであっても集まってしまう。
逆に言えば、そのような甘い言葉や数字にすがりたいぐらい今の世の中が世知辛いということでもあるんだろうなとさえ思います。
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さて、じゃあ今度は打って変わって、労働者目線で語ってみると、もちろん既にこういうところに敏感な資本家もいるということに注意を払う必要があるわけですよね。
特に、僕らと同世代に生まれてきた新たな資本家たちは、一定の割合でそのようなタイプだと思います。
で、本当にお互いがWin-Winの構造を築けていれば別に良いのだけれども、ここで問題になるのは、労働の搾取の構造が日々刻々と変化しているということです。
言い換えると、何が現代において「労働力」として用いられているのかを、きちんと判断しなければいけないはずで。
多くの人は、搾取構造は自分が搾取されているという半奴隷状態であることを自覚できるものだと思っているけれど、本当の搾取というのは搾取されていると本人が気づかないあいだに行われているものなんですよね。
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わかりやすく言えば、2010年代前半のSNSの勃興なんかはまさにそうだったかと思います。
多くの人々がSNSの誕生を歓迎し喜んだ「便利、無料、つながり!」と言って狂喜乱舞していたはずなのです。
具体的には、企業のつまらない仕事や閉鎖的な社会、そんな村社会的なしがらみに辟易していたひとたちがそこに飛びついた。アラブの春や、metoo運動などがそれを象徴的に物語っていたかと思います。
そして、その間にGAFAはドンドン巨大化した。「ほら、もっと欲しいでしょ、無料で提供するよ!」というような形で。
そして、結果としてGAFAのような企業が一人勝ちすることにつながった。つまりユーザーは、GAFAのようなビックテックのために無給で働いていたことに等しいわけですよね。
そして、気づいたときにはもう遅い。離れようにも離れられないぐらいの割合で、それが生活に浸透してしまっていて、そこに中毒性も帯びているような状態になっている。
2020年代に入っては、既にその有害性を認めながらも、ずっとその搾取構造が続いているような状態が、まさに今です。
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さて、今日ここで語ってきたような話から得られる学び、その帰結をまとめてみると、
まず資本家目線で言えば、高額な対価さえ支払えば労働者は集まる、払うだけ払ったら、あとの余剰利益はすべて資本家のものにしてもいいんだという認識では、もう労働者、特に若い人たちは集まってこないんだということ。
彼らは、対価なんてさほど求めていないから。それよりも、もっと精神的な豊かさ、公平でフラットな関係性を望んでいる。
一方で、労働者目線で言えば、あなた達のアテンション(時間やお金)がうまく用いられて、事業拡大がなされてしまっているよということ。
そのアテンションで勢いをつくり出し、労働者側が搾取どころか、自らが労働者として働かされていることさえ気づかないうちに、その力学を用いて、規模拡大をしていこうと企む資本家たちがいるよ、と。
いつの時代も、お互いが知っているような従来の権力関係ではない形で「搾取」は進行していくのだから。
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最後に、この資本家と労働者のバランスの均衡を取ろうとしながら、資本主義経済は常に発展していくということは間違いない真実なのだけれども、この戦いの螺旋から降りるということも大事なんだろうなあと。
どこまで行っても、これはずっとシーソーゲームを繰り返すだけですから。新しいテクノロジーが生まれてくるたびに、労働者からの時間とお金の「搾取」は終わらない。
本当の意味での共創関係を構築することが、いまとっても大事なことだと僕は思います。
具体的には、いつも語るようにお互いに敬意と親切心を持って接し合うこと。顔のある他者としてお互いを尊重することが本当に何よりも大事なことだと思います。
それはいつの時代、どれぐらい過酷な状況下の場所あっても、常に必ず存在した人間の最後の「希望」みたいなものでもあるのだから。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』で描かれていたような世界観でもある。
僕はそのような互いの真の人間性が発揮されるような場所を、小さくとも着実につくっていきたいなと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなっていたら幸いです。
2024/01/18 20:47