最近、トークンエコノミーにおいて投機勢は悪なのか否か、という話について多くの方が語られているなあと思います。

Wasei Salon内でも「トークンエコノミーを考える会」というだいぶディープなグループがあるのですが、このトークルームの中でも似たようなことが話題になりました。

特にFiNANCiEの場合、ロックアップ解除が少しずつ迫っていたり、新規プロジェクトのチャージキャンペーンがあったりで、投機勢の資金移動がわかりやすく起きていたりするため、いま直に直面している問いとして、このような問いを考えさせられるタイミングでもあるなあと思います。

新規のプロジェクトのファンディングは、数倍〜数十倍になることは確実であれば、どれだけ手数料が高くても、せっせと資金を移動させてその差益を稼ごうとしてしまう投機勢の人々が現れるのは、ある意味で仕方のないことだとも言えそうです。

このようにFiNANCiE自体がまだまだ仕組み的にも、実験段階のタイミングであって、このサービス自体を実際に人間が使ってみて初めてその動線やルールが明確に定まっていくような状態なんだとも言えそうです。

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で、ここからは完全に僕のポジショントークであり、これはもう完全に頭おかしい意見だと思われることを大前提で書いていくのですが、

この投機勢のひとたちに思う存分、含み益を吸い取られてしまうというのも、たぶん「必要な過程」と捉えることもできるんだろうなあというのが、最近の僕の仮説です。

本当に、これは現状肯定甚だしいと思われてしまうとは思うのですが、つまりは「通過儀礼」みたいなものだと思うですよね。

当然、投資という行為を経済学のジャンルだけで考えると、あまりにも無駄な行為で避けたい現象であると言えると思うのだけれども、哲学や宗教学、さらには文化人類学の観点から考えると、このような現象も決して無駄ではないどころが、むしろ必要な過程だったりするのかなあと。

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じゃあ、それは具体的には一体どういうことなのか?

神話学者ジョーゼフ・キャンベルの「英雄物語の構造」の話をここでいちいち持ち出すまでもなく、古今東西の神話には必ず型があって、ボコボコにぶん殴られるフェーズというのが必ず必要なはずです。

それがあるからこそ、英雄物語は英雄物語として完成する。ドラゴンボールだってワンピースだって、全部そうですよね。

つまり、こうやって今せっせと「物語」をつくっているんだと思うことは、できないのかなあと。

その物語構築に対して、僕らはいまお金を投じている、まさにそんな現実における「神話」の誕生に投資をしていると考えることはできないのか、ということです。

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この点、投資というのは自分の投じたお金に対して、それ以上の金銭的なリターンをえることが投資だと捉えられているけれども、でも果たして本当にそれだけが投資なのか。

それを今一度考えてみたい。

これは言い換えると「ときめき投資」というジャンルにおいては、物語全体に対して投資をしているということだって、考えられるのではないかということです。

たとえば、これは「宗教」だってそうですよね。

キリスト教の聖書の物語なんかは、非常にわかりやすい事例かと思います。

聖書にあるような「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」や「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」というような話にも近いのかもしれない。

普通に考えたら、どう考えても理解不能なことを、聖書は僕らに諭すわけです。

でも、このイエスの話に僕らがなぜだかハッとさせられるのは、誰もが当たり前だと思っている社会常識をひっくり返すようなことを言ったからであって、だとすればひっくり返す前の状態が、必ず必要でもあるという証拠でもあると思うんですよね。

そして、イエス自身がバチバチに虐げられていたこと、その苦難の物語が必ず必要にもなってくる。

最初からすべてがうまくいっているとしたら、それは「神話」にはならないのです。

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これというのは、単なる「仮想敵」をつくり出すという話とも、また少し違うと僕は思っています。

私たちは、いったい何を当たり前の前提として生きてしまっているのか、何が普遍的で揺るがない社会の構造だと認識して、それを前提に行動をしてしまっているのか、それを問い返してくれているような話だなあと。

「奪われたら、奪い返すのが当然だろう」という認識が事前に存在しないと、そもそもキリスト教のような価値観は決して立ちあらわれてはこなかったんじゃないか、そう思うのです。

それと全く同様で、Web2や昭和から平成型の資本主義の構造に対してのアンチテーゼとして生まれるためには、必ずその前時代的な価値観が、邪魔してくるというストーリー展開が必要になってくる。

逆にいうと、そこに大きなギャップがあればあるほど、大きな問いなんかも生まれてくる。

そして、その問いに対して真正面からぶつかり、前提から覆すような発想で全く持って理解できないスタンスで対峙するイエス・キリストのような存在がいるから、僕らはものすごくハッとさせられるわけです。

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つまり、キリスト教の場合、イエス・キリストがユダヤ教や、それまでの権力者たちからことごとく迫害されたから、あの物語は完成するわけですよね。

そして、仲間の中からもユダのような人々も、必ずあらわれる。裏切り者のユダがいて、それさえもイエスは許すから、イエスの思想が余計に際立つ。

最終的にはイエス・キリストが磔の刑にされてしまうわけだけれども、この受難があるからこそキリスト教という物語も完成する。

そして、それに類する殉教者が後世においても幾人も似たような形で続いてきたから、2000年以上もの長きにわたって、キリスト教は今のような圧倒的な地位を占めているわけです。

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で、ものすごく変なことを言いますが、僕はいま、この「受難の分散化」をしているんじゃないかと思っています。

web3やトークンエコノミーのすごさは、受益者を分散化できること、それが革新性や凄さとして語られていて、実際にそれはそのとおりなんだけれども、それは同時に、受難者さえも分散化しようという視点に立つことはできないのだろうか、と。

僕も含めて、いま各プロジェクトに対して投資をしているひとたちにとって、確かにそのまま価格が上がることがみんなにとってハッピーかもしれないし、従来の株式投資などの正攻法から言えば、それ以外の最適解は存在しないように思われる。

でも、ここでボコボコに殴られるような状態を経過するからこそ、物語が深まっていくと思うのです。だって、現代人にとって一番痛々しい形というのは、この経済戦争なわけですから。

言い換えると、昔のように人的被害が出ず、そこに血も流れずに、お金でそれを疑似体験できるところがめちゃくちゃすごいことだなあとも思います。

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それは、過去何千年もかけて先人たちがここまで社会を変えてきてくれたから、今の僕らがチャレンジできていることなわけですよね。

迫害や戦争など散々に人的被害を出しながら、実際に血も流しながら、それでもこの世は生きるに値すると訴え続けてくれたたひとたちがいるから、殺人はいかなる理由があっても、正当化されない世の中に、一応現代の僕らは生きられている。

じゃあ、次はこの「受難の分散化」にも、挑戦してみることも一つの手段なのではないか。

にも関わらず、自分は美味しいところだけ享受したいと願ってしまうのは、正直それはあまりにも虫が良すぎる話だなあと思います。

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いろいろな意見があるけれど、僕自身は、ここにいまお金や注意を払っている気持ちがめちゃくちゃ強いです。

その受難さえも分けてください、一緒に負担しましょう、と強く思う。

それは、何か大きな公共の建物を立てるときの建設予算みたいなイメージで投じています。それもひとつの「広義の意味での投資」だと思っているからです。

たとえば、町のなかに「憩いの広場」があればいいとみんなが思うけれど、誰かが私財を投じて身銭を切って、ときに自らを犠牲にしながらでないと、それは完成しない。

でもそれが完成することで結果的に街全体の大きな投資になっていくわけじゃないですか。

そんな「公共の憩いの広場」となるような「物語」や「神話」をまさに今、つくっているような感覚です。それは必ず巡り巡って自分たちにも返ってくる。

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なによりも、「一人にすべてを背負わせなくていい構造なんだよ」ということを、今回は強く強調したい。

それが「受難の分散化」における本当にすごいことですよね。

そしてこれは、ファウンダーのひとが自分の口からは決して言えることではない。むしろ、ステークホルダーのひとりひとりの歩み寄り、そのスタンスにすべてがかかっていると言えそうです。

これは逆に言うと、イエス・キリストをはじめ、会社などにおいてもそうですが、ありとあらゆる物語が基本的には創業者ひとりの受難の歴史だった。

だからこそ、創業者がすべてを受け取っても許されるという論理でもあったなと思いますし、その論理は当然の理です。

それぐらい、一人で背負い込むのが創業者という立場でもある。でも、今回はそんな痛みの部分さえも分散化できるという視点を持てないのだろうか。

少なくとも僕は今そう思いながら、今のこの景況感やトークンエコノミー全体の未来を眺めています。

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「人はパンのみにて生くるにあらず」それをコミュニティ全体で体現できるかどうかが、いま強く問われているように思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。