先日、配信した山口さんと永井さんとの鼎談の中でも話題になりましたが、「食欲」に関して他者と対話を行うと、いつもものすごくハッとさせられます。


世間一般的に語られる「自由」と僕が考えている「自由」の捉え方が、全然異なるんだなあと強く実感させられるんですよね。

このときに、いつもうまく伝えられている気が全くしないので、改めてこのブログに僕が考えるこのあたりの「自由」の概念についてまとめてみたいと思います。

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この点、世間一般的に語られる食欲における「自由」というのは、何か頭に浮かんだ欲望、それをそのまま実行に移すことが可能である状態を自由と指すのだと思われている様子。

具体的には、「あっ、今日はカレーが食べたいな」と思ったら、その日にその欲望通りに自分が食べたかったカレーを実際に食べられることが「自由」だとされていますよね。

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で、そんな日々の自由な状態を確実に獲得するために、条件として必要なものを手に入れようとする。

具体的には、そのために必要な「お金」を手に入れたり、「時間」的な余裕を手に入れたり、健康や料理や情報収集スキルを獲得しよう、みたいなことが語られることが、一般的です。

そうすることで、より「自由」に近づき、私の理想とする欲望が満たされるのだと思われている。

これは、わかりやすく食欲における「自由」の話だけれども、ありとあらゆる欲望が、この「自由」の構造で言い表すことができるかと思います。

そして、きっと今このブログを読んでいるひとの多くも、それが「自由」であり「幸福」であり「豊かさ」だと思っているはずなんですよね。

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でも僕は、そのような状態を自由だとも幸福だとも豊かさだとも、まったく思っていません。

むしろ「食べたい!」と思ったものを、その欲望のままに食べずに済むことのほうが、僕にとっての「自由」なんです。

変な話だと思われている自覚はあるので、以下でなるべく詳しく解説していきます。

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まず、このあたりは原始仏教の考え方が、自分にとって一番近い考え方だなあと思っています。

以前もご紹介したことのある、魚川祐司さんが書かれた『仏教思想のゼロポイント―「悟り」とは何か―』という本の中に書かれているお話が非常にわかりやすくて、今日のブログを書くうえでも非常に参考にしているので、そちらをここでご紹介します。

魚川さんは、カントの「自由と傾向性」に関する議論も参考にしながら「無我」について語ってくれています。

以下、再び本書から少し長くなりますが引用してみたいと思います。

日常において無自覚に生きている場合、私たちは心にふと浮かんでくる欲望、例えば「カレーが食べたい」であるとか、「あの異性とデートをしたい」であるとか、そういった欲求・衝動に「思いどおりに」したがうことを、「自由」であると思いなしがちである。

しかし、カントによれば、そのように感覚に依存した欲求にそのまましたがって行為することは、単に人間の「傾向性」に引きずられているだけの他律的な状態に過ぎず、「自由」とは呼べないものである。心にふと浮かんできた欲望に、抵抗できずに隷属してしまうことが「恣意(選択意志、Willkür)の他律」なのだから、それは「自由」とは別物であると、カントは考えていたわけだ。     

仏教においても、(「自由」や「傾向性」という言葉は使わないけれども)基本的には同様に考える。少し時間をとって内観してみればすぐにわかることであるが、「心にふと浮かんでくる欲望」というのは、「私」がそれをコントロールして、「浮かばせている」わけではない。欲望はいつも、どこからか勝手にやって来て、どこかに勝手に去って行く。即ち、それは私の支配下にある所有物ではないという意味で、「無我(anattan)」である。

つまり、私たちはふだん自分が「思いどおりに」振る舞っていると感じているが、実際のところは、その「思い」そのものが「私たちのもの」ではなくて、単に様々な条件にしたがって、心の中に「ふと浮かんできたもの」であるに過ぎない。     


ちなみにここで語られている、カントの話というのは、NHKで放送されていた「100分de名著」の哲学者・西研さんが講師役で出演されていたカントの『純粋理性批判』の回でもとても丁寧に語られていました。

こちらも非常にわかりやすい解説だったので、合わせて観てみることを強くおすすめしたいです。


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さて、このように僕は何か環境や社会的要因から押し付けられた「◯◯したい!」と思ってしまう感情、その感情に振り回されないことが、一番の自由だと思っています。

自分の欲望なんて、そもそも存在しないと思っているからです。

でも一方で、そのような欲望に対して過度に執着をして、何が何でもそれを勝ち取っているひとこそが目立つ世の中が、現代社会でもある。

そんなエネルギッシュなひとたちの声が一番大きくて、「夢を叶えた」だの「いま幸せです」」だの、いろいろなことをメディアを通して宣うから、僕らはそれを見聞きして、特に自ら考えもせずに、それが羨ましいと感じて「他人の欲望」をそのまま欲望してしまう。

それこそが「私の夢」でもあるのだと誤解してしまうわけですよね。でも、これもまさに恣意の他律にほかならないわけですよね。

カレーの例だって、じゃあなんでカレーを食べたいと思ったのかといえば、テレビかスマホでカレーにまつわる広告か何かをみたことが大きいはずです。

魚川さんは、本書の中で「ふと浮かんできたもの」それ以外のものを我々は知らないから、ただそれにしたがって行為するしかない、それが凡夫にとっての「思いどおり」というものであって、それは仮面を被った隷属に過ぎないものであると書かれていて、この表現も本当に強く同意します。

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「とはいえ、ここで頑固なひとは、たとえそのような隷属にすぎない願望だったとしても、自分が望んでいることは変わりなく、満たしたい欲望として今実際に存在をしているから、それを満たそうとすることは、悪いことではないはずだ」と思うかもしれません。

だから、それが本当の意味での私の「自由」ではなかったとしても、行けるところまで行こうと目指すことには価値がある、と。

もちろん、そのような考え方もあることは理解できるし、一切否定もしません。それはそれぞれの生き方の問題です。

ただ、そこでも忘れちゃいけないなと僕が思うのは、どれだけ経済的に成功しても、どれだけ有り余る権力や富を手に入れても、それでも「死」は平等にやってくるわけです。

逆の視点から言うと「死」を克服できない限り、この頭に浮かんだ欲望を叶え続けるという動機づけには意味がない。

つまり、極限まで考えてみると、そもそも自らが能動的に欲望をコントロールできると仮定する「自由」というものは不可能であることがわかるんですよね。

それは今まさに、プーチンや習近平が今直面している問題である。いつか独裁者になり、そして自らの寿命を意識し始めると、戦争のようなことを仕掛けてしまう。

この点、思想家の内田樹さんいわく、天下無敵とは、この世に存在する人間、全員に対して勝つことができるということではなくて、天下の中に敵が存在しないこと、それが天下無敵であると何かの本の中でも書かれていましたが、それとも非常によく似ている話です。

この世に存在する全員に対して、武力で勝てることが「自由」なのではなくて、そもそも「敵」が存在しないことが、本当の天下無敵であり「自由」なんですよね。

それは死という圧倒的な他者と呼べるようなコントロール不可能性においても、全く一緒の論理だと思います。

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さて、ここで少し話はそれますが、今日の話に関連して、最近よく思うことはサスティナブルや、持続可能性という言葉に対する誤解みたいなものもあるなと思っています。

サスティナブルって、本来は地球や環境に負荷をかけずに、持続可能な世界を目指そうみたいな話だったのに、なぜか最近は「人間側のコントロール可能性」の話をしているひとが非常に増えたなあと思う。

それは自然を尊重しているようで、自然を人間にとって都合の良い形でコントロールできる対象としようとしている、それはどう考えても、自然を舐め過ぎで。

「サスティナブルになってくれ、脅かさないでくれ」これも自らコントロールできることが「自由」だと思いこんでいる証だと思います。

逆に思い通りにいかないもの、コントロールが効かないものは「自由」ではないという発想。ゆえに、成功さえも自らにおさまらないから、その居心地の悪さゆえに過激な成長も「サスティナブル」でないと叫んでしまう。

これは、マーケットにおいてバブルが起きることを極端に嫌う話にも非常によく似ている。

つまり、資本主義の権化みたいな圧倒的な成長を求めてスピードアップを求めるタイプの人も、サスティナブルな状態を過度に求めてスピードダウンを求めてしまうひとも、どちらも本当は対立なんかしていなくて、全く同じことを主張しているなと僕には見える。

どちらも「俺の思う範囲内で動け、俺にコントロールさせろ」ということですからね。

それは、養老孟司さんがいつも笑い話のように語っている「危機管理センター」みたいな話なんですよね。

管理コントロールできないから「危機」なのであって、それは語彙矛盾なのですが、この2つの言葉をあたりまえのようにくっつけてしまうのが脳と意識が肥大化している現代人が陥る罠なのだと思います。

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だからこそ、起きることは起きると仮定したうえで粛々と準備をしながら、来たら来たで淡々と対応するほかない。

小倉ヒラクさんがよく語られている「うけたもう力」とはまさにこのこと。

また、中村天風もよく語っているように、今生きていることそれ自体に感謝をするようなスタンスでいられること、それこそが真の「自由」だと思っています。

僕はここに、いちばんの「自由」の可能性が眠っていると確信している。

ただ、それを主張するとなぜだか無欲だとか、生命力が枯れているだとか言われてしまうから、本当に世の中のひとびとの価値観というのは多種多様だなあと思わされる。

僕は今日語ってきた観点での自由を常に求め続けてきたから、ある意味で他の誰よりも自分が一番欲深いと思ってはいるのだけれど、意外とこれは欲深いとは思われないらしいです。ありがたいことですね。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。