なぜ、僕は「身体性」にこだわり続けるのか。

そこに「個性」があると信じているからです。

どうしても僕らは、「自分らしさ」とか「個性」とかの話になったときに「そのひとが何を言っているのか、どれだけ他者を説得できるようなことを言っているのか」ばかりに意識を向けてしまいがちです。

でも誤解を恐れずに言えば、頭で考えるものはすべて、自分らしさでも個性でもなんでもない。

それは、生まれた後に触れてきた誰かの思想の受け売りに過ぎません。

むしろ、生まれてきた瞬間から自らに与えられている身体こそが個性です。

その証拠に、養老孟司さんもよく仰っていることですが、遺伝子が近い親の皮膚でさえ簡単に移植することはできない。

つまり、身体はひとりひとりがこの世に生まれ出てきた瞬間からまったく異なるものとして存在しているわけです。

その身体性に耳を傾けていくことが「本来の個性」ではないでしょうか。

それのみが、この世界に存在する唯一無二の「私」なのですから。そしてその身体というのは常に変化し続けている。

まさに「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」です。

ーーー

さて、ここからは少し抽象的な話になるのですが、最後にはまたわかりやすい話に戻ってくると思うので、ぜひ最後まで読み進めてみてもらえると嬉しいです。

この「頭が個性なのか、身体が個性なのか」という話は、デカルトとスピノザの違いが非常にわかりやすいかと思います。

「我思う故に我あり」(デカルト)と、「真理が真理自身の規範である」(スピノザ)という言葉の違いにもつながっていきます。

以下は、國分功一郎さんが書かれた『はじめてのスピノザ』からの引用です。

デカルトは誰をも説得することができる公的な真理を重んじました。実際にはそこで目指されていたのはデカルト本人を説得することであったわけですが。     

それに対しスピノザの場合は、自分と真理の関係だけが問題にされています。自分がどうやって真理に触れ、どうやってそれを獲得し、どうやってその真理自身から真理性を告げ知らされるか、それを問題にしているのです。だから自分が獲得した真理で人を説得するとか反論を封じるとか、そういうことは全く気にしていないわけです。


デカルトが主張したことは、すべてを疑い、それでも疑えないものがたったひとつだけある、それはこの疑っている私なのだと。

この真理に対して反駁できるひとはいません。だからこそ、いまだに僕らはこのデカルトの哲学原理を語り継いでいるわけですよね。

ーーー

一方でスピノザが主張したことは、デカルトとはまったく異なります。

他者を説得したり、論破したりすることはできない、それでも間違いなく存在すると感じられる私と真理の関係性のほうに目を向けました。

これは、他者からはいくらでも反駁できてしまいます。それはおまえの感覚に過ぎないだろ!と。

でも僕は、この身体性から立ちあらわれる、他者に対してまったく説得できるような感覚ではない私固有の感覚のほうを大切にしていきたいですし、この感覚こそが「宗教性」と呼ばれるものだと思っています。

ーーー

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は『日本の面影』のなかで、これに近いと思われる感覚を「ゴースト」という言葉を用いて表現していました。

みんな大好き『攻殻機動隊』の中にも、「ゴースト」というセリフが頻繁に出てきますよね。

このゴーストは、誰かを説得するという一点においては全く役に立たないものです。

私の中のゴーストの囁きで、万人を説得することは絶対に不可能なのです。

ゆえに、理性が先行している脳化社会においては、この宗教性を蔑ろにする方向に向かってしまいます。

自己の身体の声に耳を傾けた結果、立ちあらわれてくる「なんか嫌だな」「とても居心地がいいな」という感覚を優先するような状況はドンドン許されなくなっていきます。

だからこそ、現代人は他者の理解や共感を求めて(反駁されることを恐れて)、すぐに自らの痛覚を切ってしまうのです。

もしくは、すぐに世間の「快楽」を過剰評価するようになる。

具体的には、ブラック企業やカルト宗教のような場で洗脳状態になれば、ひとはいくらでも労働や苦行を我慢できるようになってしまいますし、テレビやSNSで「これが身体に良い食材!」「このお店が美味しい!」と言われたら、それにすぐにワーッと群がってしまう。

私の身体がどのようなサインを出していようとも、それよりも頭で考えることがすべてであって、「論理的に考えれば絶対にそうだ!そうに違いない!」と実感することが、私が個性的になるための条件だと信じ切ってしまっているわけです。

でも、それは世間の多数派の意見に同調しているだけであって、まったく個性的なことではない。

むしろドンドン同一性の方向へと向かってしまいます。

ーーー

大事なことなので繰り返し書きたいと思いますが、本当の個性とは「身体性」の中から立ちあわられる一人ひとりの「宗教性」のほうにあります。

それを探求していくことが「“はたらく”を問い続ける」ということだし、このWasei Salonにおいて、みなさんに実現して欲しいと思っていることのひとつです。

多くのオンラインサロンは、デカルトのように「真理を探求する」と言って、メンバーを全員を同一化させる方向へと舵を切ってしまう。

そこにちゃんとした「論理」さえ存在していれば、少なくともその論理に賛同して集まってきた人たちには絶対に反論できないですからね。

でも、そればかりに目を向けていると、本当のあなたの個性を蔑ろにすることになる。

それよりも、もっともっと自己を深堀りして、「自らの身体性に耳を澄ませてみましょう」ということを伝えていきたい。スピノザや小泉八雲がそうしたように。

ーーー

そして逆説的なのですが、そのためには他者と対話し、他者を知るという作業が非常に重要になってきます。

なぜなら、他者の身体性や宗教性を重んじることができる人間だけが、自らの身体性や宗教性を大事にできる人間となるからです。

無意識のうちにでも、過去に自らの宗教性を捨て去ったことがある体験をしたひとは、必ず他者に対しても「ソレを今すぐに捨てされ!」と強く強要できてしまうことは間違いない。

自らの宗教性を大切にするためには、必ず他者との間に存在する宗教性の「違い」を認め合うことが必要になるはずなのです。

もしかしたら最後までわかりにくい話になってしまったかもしれませんが、いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。