先日、荒木博行さんのVoicyにゲスト出演させていただき、『世界は贈与でできている』でも有名な哲学者・近内悠太さんと3人で鼎談させてもらいました。


二日にわたる鼎談の配信だったのだけれど、終わったあとも、頭の中にずっと残り続けていたことがあります。

今日は編集後記的に、そんなことを書いてみたいと思います。

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まず鼎談の最初の入り口は、身体性への揺り戻し、その危うさにまつわる話でした。

SNSやオンラインでのつながりが当たり前になり、さらにAIまで出てきたことで、いよいよ「身体が置き去りにされている感じ」が強くなってきた。

だからこそ最近は、身体性への揺り戻しみたいなものが起きている。身体こそが大事だ、人間には身体がある、それがAIにはないものだ、と。

この流れ自体は、僕自身もよくわかる。むしろ、わかりすぎるくらいにわかります。

だからこそ、ひとつだけ気になっていたのは、身体に戻ればそれでいいのか、身体性を取り戻そう、と言い出したとき、そこには別の危うさも同時に立ち上がるのではないか、ということでした。

実際、鼎談の中でも、最初そんな話を僕から提案させてもらいました。

それに対するお二人の回答が素晴らしい。これはぜひ直接配信を聴いてみて欲しいです。

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で、そんな問題意識から始まった対話だったのだけれど、終わってみると、僕の中にいちばん強く残っていたのは、身体性そのものの話ではなくて、むしろ鼎談の後半に出てきた「勇気」の話だったんですよね。

ここからが今日の本題にもなってきます。

『葬送のフリーレン』に出てくる、「ヒンメルならそうした」という、あの話です。

あれは本当に不思議な言葉だなあと思う。

なぜなら、あの言葉の中で語られている「勇気」というのは、ふつう僕らが思い浮かべる勇気とは少し違うからです。

一般に「勇気」と聞くと、自分の中からひねり出すもののように思える。怖いけれど頑張る。怯えている自分を奮い立たせる。気合いを入れて、一歩前に出る。そういうイメージが強いはず。

でも、「ヒンメルならそうした」の中にある勇気は、どうやらそういうものではないらしい。

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あの場面では、むしろ自分が前面に出ていない。

「自分が助けたいから、助ける」のでもないし、「自分が正しいと思うから、やる」のでもない。

ただただ、「あの人がここにいたら、きっとそうしただろう」と思う、その気持ちで行動する。そのとき、不思議と身体が動いてしまう。自分の能力や判断を超えて、一歩足が前に出てしまう。

この感じが、すごく大事なんじゃないかと思ったんですよね。

鼎談の中で近内さんが話していたのも、まさにそこだったと思います。ヒンメルのように振る舞うとき、そこにはエゴが抜けている、と。

「あなたを助けてあげたかったから」という自己演出ではなくて「先輩が俺にそうしてくれたからだけだよ」という感じがある。

自分が善い人間であることを示したいわけではない。ただ、受け取ってしまったものがあるから、それに応答してしまう。

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僕はこのお話を聞いたとき、「ああ、勇気って本当はこういうものなのかもしれない」と思いました。

つまり、人は自分の内側から勇気を出すのではない。先に受け取ってしまったものがあるとき、はじめて自分(の弱さや、ちっぽけさ)を超えることができるのではないか、と。

これは以前、Twitterにも書いたことなのだけれど、「ヒンメルならそうした」の話って結局、ひとは先に受け取ってしまったとき、つまり先行する「贈与」があったときに初めて自分を超える「勇気」を出すことができるという話でもあるのだと思う。

ここで言う贈与は、もちろん大げさなものではないです。

恩を売るようなものでもなければ、「ほら、私はあなたにこんなに良くしてあげたでしょう」と可視化されるようなものでもない。むしろその逆で、押し付けがましくないもの。

背中で見せてくれたもの。近内さんのおっしゃっていた、書きぶりや、身振りのような、勝手に見ている側が触発されてしまうもの。

困っている人に、当たり前のように手を差し伸べる所作です。

あるいは、誰かを踏みつけずに前に進んでいく、その人なりの間合いの取り方、みたいなもの。

そういうものを、人は知らず知らずのうちに、先人から受け取っている。

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そして本当に不思議なのは、その受け取ったものが、ある日突然、自分の勇気につながるということなんです。

それまでの自分なら、たぶんやめていた。怖くて動けなかった。面倒だし、別に自分がやらなくてもいいと思っていた。

でも、先に何かを受け取ってしまっていると、その自分だけの世界をカンタンに超えられてしまう。「あの人ならどうするだろう」と思ったとき、いつもの自分では出せない一歩が、結果として自然に出てしまう。

勇気とは、自分を奮い立たせる力というより、そうやって先に受け取ってしまった贈与への身体的な応答なのではないか。僕はいま、そんなふうに考えています。

しかも、この話にはさらに大事な続きがあって。これはあの鼎談内で語りきれなかったことでもあります。

というのも、もし勇気がただの「アクセル」であれば、それはいつか暴走する。

前に出る力だけが強くなれば、人を傷つけることもあるし、自分を壊すこともある。

実際、現代は「勇気を持て」「一歩踏み出せ」「自分らしく行け」みたいな言葉にあふれていて、その多くはアクセルばかりを踏ませてくる。

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でも、「ヒンメルならそうした」の話があまりに美しいのは、そこにアクセルだけでなく、ブレーキまで含まれているからだと思うのです。

なぜなら、先に受け取ってしまったものが本物であるなら、それは単に「前へ出る勇気」だけを手渡しているわけではないからなんです。

その人の贈与の中には、きっと「節度」も同時に含まれている。

どこで踏み込むかだけではなく、どこで踏み込みすぎないか。

どこで声を上げるかだけではなく、どこで黙るか。どこで助けるかだけではなく、どこで相手の自由を残すか。

そういう、人間としての間合いまで含めて、僕らは誰かの身振りを受け取っている。

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だから、「あの人ならそうするだろう」と思うことは、同時に「あの人なら、ここではやりすぎないだろう」と思うことでもある。

ここも勇気と同じぐらい、すごく大事なこと。

受け取った贈与は、僕らに自分を超える勇気を与えてくれる。けれど同時に、超えすぎないための「節度」も与えてくれる。

アクセルとブレーキが、別々のところからやってくるのではなく、同じ場所からやってくる。

ここでいう節度は、ただ自分を抑え込むためのブレーキではないと思うんです。

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勇気だけでは、人は危うい。節度だけでも、人は縮こまってしまう。

けれど、誰かから受け取ったものに支えられた勇気には、最初から節度も同時に宿っている。

そのバランスが、自然に定まっていく感じ。そこにこそ、人から人へ受け継がれていくもののすごさであるような気がします。

そして、この話は、以前このブログで書いた「あなたならこうする」とAIが語りはじめた時代の話と、似ているようでかなり違う。


AIは、もっともらしく「自分らしい答え」を先回りして返してくる。しかもそれは、他人の顔をしていない。むしろ自分の顔をしながら、自分の言葉づかいで、自分の関心に寄り添うかたちで出てくるわけですよね。

だからこそ抵抗しにくいし、気づかないうちに、その指示や助言に従って、勇気を出して普段の自分なら決してやらないことをやってしまう。

あのときに僕が怖いと思っていたのは、AIが勝手につくりあげていくそんな「私の物語」です。

つまり、「あなたならこうする」「あなたらしくあるなら、こう答えるはずだ」と、自分の輪郭を、勝手に濃縮還元して返してくる物語。

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それはたしかに「勇気」を出そうとするときにはものすごく便利だし、ある意味では自分を支えてもくれる。

でも、どこかでアクセルが強すぎる。

そこには、自分を前に進ませる力はあっても、自分を超えすぎないための節度までは、なかなか宿りにくい。

なぜなら、それはあくまで「私」の物語だからです。

AIのつくる「私の物語」は、自分の輪郭をよりくっきりさせ、より迷いなく前へ出してくれる。でも今回考えたいのは、そういう物語とは少し違う。

連綿と続いてきた縦の系譜につらなる、「私たちの物語」のほうです。

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「私たちの物語」は、自分を濃縮する物語ではなく、むしろ、自分を一度だけ少し薄くして、そのかわりに、自分の前にいた誰か、自分に何かを残してくれた誰か、その背中や身振りや書きぶりのほうに、自分をつなぎ直していく物語。

だから、そこでは自分が自分らしくなることと、自分が勝手気ままになることが、同じではなくなるわけです。

先に受け取ってしまったものがあるから、自分を超える勇気が持てる。
でも同時に、その受け取ったものがあるからこそ、自分勝手にはなれない。

この矛盾自体が、最高に素晴らしいなあと思います。

この感じが、AIが演出する人生とは、やっぱり完全に似て非なるものだと思う。

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最後にまとめてみると、どうすれば勇気を持てるのか。どうすれば一歩踏み出せるのか、と問われるけれど、でも本当は、問うべきことはそこだけではないのかもしれない。

どんな勇気なら、他人も自分も壊さずに、世界をより良い方向へと前へ進められるのか。

その答えは、たぶん先行する贈与の中にあるということです。

自分の身の回りに、押し付けがましくない形で、背中で見せてくれたものがどれだけあるのか。

そして、それらをどれだけ遡行的に発見し、今度はそれを次の誰かに自分が静かに手渡していけるか。

それが、バトンをつなぐということなんじゃないかと思う。

これからのAI時代に、僕ら人間が守りたいのは、AIが与えてくれる正しさそのものよりも、こういう贈与が自然に流れていく「場」だと思います。もちろん、Wasei Salonもそんな場でありたい。

誰かの身振りが、別の誰かの勇気になり、その勇気が、また別の誰かを傷つけないための節度にもなる。そんな循環をこれからも生み出していきたいなあと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。