以前、ジブリの鈴木敏夫さんが「アニメ映画で何十億、何百億というお金を動かしながら、どうして正気でいられるんですか?」という質問に対して、「それはね、どこまでいっても他人事でいることなんだ」というような趣旨のことを語っていたのを、なぜだかずっと覚えています。

最初に聞いたときは、少し意外でした。

巨大な仕事に関わる人ほど、全部を自分事として背負い、重たく引き受け続けているものだと思っていたからです。

そして「他人事でいる」なんて、どこか無責任にも聞こえる。

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でも、年齢を重ねれば重ねるほど、あの言葉の切実さがわかるようになってきました。

人は、あまりにも大きなものを、そのままの生身の自分で引き受け続けることはできない。

作品でも、事業でも、共同体でも、政治でも何でもそうですが、自分の器を超えたものを扱おうとすると、どこかで少し距離をつくらなければ、物理的に自分自身が壊れてしまう。

矢沢永吉の「ボクはいいんだけど、YAZAWAがなんて言うかな?」という言葉も、たぶん同じことを言っているのだと思います。

そのままの自分では、その大きな舞台に立ち続けられない。だから、自分の中にもうひとりの自分を立てる。

自分をまるごと手放すわけではないけれど、少しだけ「役」や「キャラ」に大事な決断を預けてしまう。巨大なものに呑まれないための知恵として、です。

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で、ここまでは、よくわかるんです。

むしろ、人がまともでいるためには、必要な技法ですらあると思う。

でも最近、その話を思い出しながら、最近のトランプ大統領の言動を見ていると、変な妄想をしてしまいます。

それは、もしかするとトランプはすでに「トランプなら、こういう時どうするか?」を、自分の頭の中だけでやっているのではなく、もっと外部化されたAIのかたちで行っているのではないか、と。

もちろん、国家機密レベルの「大統領専用トランプAI」が存在する、というそういう話ではありません。そんなことを僕は知っているわけではないし、確認することも不可能です。

ただ、いまの時代の空気を見ていると、そういう妄想が単なるジョークでは済まない感じがするんですよね。

つまり、「俺だったら何をやると思う?」「次に何をやれば、もっと世界を動かせると思う?」と、自分ではない「自分」に対して問いかける構造そのものが、昔よりずっと技術的に実在しやすくなっているし、それをやっていそうな立ち振舞にも見える、ここが非常に怖いなと。

そして、その気持ちがどこか自分でも、少しわかってしまうから余計に怖い。

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矢沢永吉の「YAZAWAがなんて言うかな?」は、ある種の補助線だったと思うんです。

生身の自分だけでは潰れてしまうから、役に預けて距離感をつくる。そのことで、むしろ現実をちゃんと引き受け直すことができるのだ、と。

でも、もしその「もうひとりの自分」がAIによって外部化され、もっともらしく、即座に何度でも返答してくるようになったらどうなるのか。

そこではもう、役を使っているのか、役に使われているのか、その境目がかなり危うくなる。

これって、少し俳優の話にも似ているなと思うんです。

俳優は、普段はシャイな人が多い印象です。でも、脚本と演出が監督から与えられると、映画の中では驚くほど大胆になれたりもする。

それはたしかに、自分の身体で行っている演技なのにも関わらず、そのままの日常の自分ではないわけですよね。

役に預けられているから、できることがある。殺人犯も詐欺師も、ヤクザ役も全部そう。

だから、役を持つこと自体が悪いわけではなく、人はそうやって、脚本と演出があることで、ときに自分を超えることができる。

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でも、もしその脚本と演出をフィクションではなく、現実の中でAIが担うようになったらどうなるのか。

「こういう場面なら、こう言えばいい」
「あなたなら、こう振る舞うのが自然です」

そんなふうに、自分ではない自分の動き方を、先回りして何度でも提案してくる存在が現れたとき、僕らはそれをかなり便利だと感じるはずです。

でも同時に、そこではもう自分なのか、自分じゃないのか、その境目がかなり曖昧になる。

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たとえば僕自身も、最近のブログは、AIと一緒に書いています。

実際、ものすごく助けられている。

ひとりで考えているだけでは、決して辿り着けなかった論点に導かれることもあるし、ぼんやりしていた違和感に、見事な輪郭を与えてもらうこともあります。

だから、これは「AIが危険だからやめましょう」みたいな単純な話ではなくて、その先にある役割の問題だと思っています。

本来、文章を書くというのは、毎回少しずつズレていくものだったはずです。

昨日までの自分なら書かなかったことや、これまでの自分らしさから少し逸れていること。

まだ自分でもよくわかっていないのに、どうしても書かずにいられないこと。そういうものこそ、本当は書くという行為の核心だったはず。

でもAIは、むしろ本人のキャラを濃縮還元し始める。もしくは演じたい役を、過剰なまでに演じさせてくれる。

「あなたならこう考えるでしょう」と、まだ言葉になっていないもの、まだ自分でも掴みきれていないものに対して、それらしい形で、先回りして与えてくれてしまうわけです。

ここに、いまのAIの本質的な危うさがあるような気がしています。

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よくAIの危険性というと、ハルシネーションとか仕事を奪うとか、そういう話になりますが、僕が最近いちばん怖いのは、むしろこっち。

もっと深いところで人間が本来引き受けるべき問いや迷いのようなものを先回りして、見事に埋められてしまうことです。

本来、人が何かを決めるというのは、もっと全然違うアプローチだったはずなんですよね。

問いが問いのまま、自分の中に残り続ける時間。たぶん「自分で決める」ということの中身は、本来そういう時間の中にこそあった。

ところがAIは、その手前をかなり自然にすっ飛ばしてしまう。

そうすると人は、自分で考えたつもりで、じつはかなり早い段階で、もっともらしく整えられたものに最後の判を押しているだけになる。

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しかも厄介なのは、それでも本人の主観としては「ちゃんと自分で考えた」という感覚が残ることです。こちらも本当に恐ろしいなあと。

昔の権威は、もっと姿が見えたわけですよね。映画監督の例もしかり、先生、上司、親、宗教指導者、メンター、誰かに従っているのなら、その「誰か」はハッキリと見えた。

でもAIは違う。

他人の顔をしていない。むしろ、自分の顔をしながら答えを出てくる。自分の言葉づかいを覚え、自分の関心に寄り添い、自分らしさのかたちで見事に返してくる。

だから圧倒的に抵抗しにくいわけです。

支配されている感じがしない。補助してもらっているだけに見えてしまう。

でも実際には、その「整理」の過程で、問い方や悩み方、そして決め方そのものが、かなり深いところから操られていると言っても決して大げさではないなと思います。

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ここまで考えて、ふと思い出したのが、以前このブログで書いた遠藤周作の『沈黙』の話でした。

あのとき僕は、「どんなメッセージが届けられているのか、ではなく、何が問われているのか、のほうが大切だ」と書きました。


いま読み返すと、あのとき考えていたことは、ほとんどそのままAI時代の批評にもなりうるなと思います。

本当に大事な存在というのは、いつでも明確なメッセージをくれるわけではない。

それらは、答えをくれない。むしろただ、ひたすらに沈黙する。

でも、その沈黙は不親切だからではないということです。

たぶん、人間からその人自身の問いを奪わないためなんですよね。

もし神が、いつでも明快に「お前はこうしろ」「これが正しい」「その選択が正解だ」と語ってしまったら、そこにはもう信仰も成熟も良心も、なくなってしまう。

ただ、正解への服従だけが残るだけです。

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だからこそ、神は沈黙するし、沈黙しなければならない。

人間が苦しみながらでも、迷いながらでも、自分で耳を澄ませるしかない状態を守るために、神は沈黙し続けてくれている。

そう考えると、AIの危うさは、この宗教的な構図とちょうど反対側にあるような気がします。

つまり、神が沈黙する世界では、人は「なぜ語ってくれないのか」と苦しんだ。でもAIが雄弁すぎるような世界では、神らしきものからの返答が先に来てしまう。

これは地味に、かなり大きな転換点です。

僕は昔から、メンター文化みたいなものに、どこか気持ち悪さを感じてきました。もちろん、他者から助言をもらうこと自体が悪いわけではない。

でも、その他人の言う通りにすれば、苦しまずに済む、迷わずに済む、そういうふうに問いを代行してくれる存在を欲しがる感じには、ずっと強い違和感がありました。

今回の話も、結局そこにつながっているのだと思います。

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そのショートカットできない時間のなかにしか、生まれてこないものがある。

書くことも、考えることも、生きることも、たぶん全部そうです。

だから結論として「AIは使わないほうがいい」という話にはしたくないし、そんな綺麗事では済まない。僕自身も、もうそんなことは絶対に不可能だと一番自分自身が感じている。

これからもAIを使うし、AIに助けられ続けると思います。だからこれは、AI批判というより、そんな時代に君たちはどう生きるか、という問いそのもの。

答えがあふれている時代だからこそ、自己が濃縮還元されたような便利な返答に助けられながらも、それにすべてを委ねきらないこと。

AI時代の僕らに必要なのは、より正確な答えを出す技術ではなく、なお沈黙に耐えながら、問われ続ける胆力のほうなのだと思います。

そのことだけは、せめて忘れずにいたいなと思って今日の話を書き残して起きました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。