今回の年末年始で読み終えた本の中には偶然にも、

「ニュースというものがこの世に生まれてから、人々の行動や心理がどう変わったのか」

という問いが、それぞれの著者の視点から語られていました。

具体的に読んだ本のタイトルは『自由からの逃走』『孤独な群衆』『幻影(イメジ)の時代』、『複製技術時代の芸術』などなど。

これらの本を読んでみて改めて理解できたことは、どれだけ信頼性の高い媒体であっても、ニュースの構造上、そもそもニュース(真実)というものは、創作される運命にあるのだということです。

正確な知識や正確な情報なんてものは、この世には存在しないのかもしれない。

あるのは、あくまで私にとって「これは確からしい」と信頼できる、私自身が「これは真実だ」とみなした事柄だけ。

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だとすれば、本当に重要なことは「私が何を真実だとみなすのか」です。

その基準はやはり、「私がこれまでに実体験を通じて、何を真実だと判断してきたのか」その過去の体験によって養われた価値基準によってくる。

言い換えれば、これだけは私が実際に目で見て触れて、体験したことであり、私にとっては真実に値すると感じ取れたことことの集合体。それこそが新たなニュースや情報、他者の意見に触れたときの信頼性の担保になってくる。(※あくまで私にとって、です。)

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だからこそ私たちは、実際に自ら現場に出向いてみる必要があるのだと思います。

自分で体感してみて、自分よりも詳しい人に出会い、彼ら(彼女ら)と対話をしてみて、そこで得られるひとつひとつの確からしいと感じられる実感値を、私自身の価値基準に丁寧にプラスしていくしかない。

強いて言えば、そこで得られた自らの実体験や知見を通して、日々のニュースや得られた情報で引き出される「私の感覚」こそが、私にとっても、あなたにとっても、それぞれにとっての「いちばん真実に近い事柄」になり得るのだと思います。

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つまり、この世に存在するのは、各人にとっての「これは真実に値する」と感じられる情報だけなのです。

それでも、十数年前までは新聞やテレビなどマスメディアによって、より多くの人が真実に値すると感じられる「共通認識」のようなものが存在しました。

しかし、今やスマホを通じて、SNSや動画によって個人から現場の様子が発信され、それを信じるに値すると思うひとが多ければ、そちらが世の中の真実になってしまう時代です。

いよいよ全員が共通認識として受け止める客観的な真実なんてものは、完全に消滅してしまったのだと思います。

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であるならば、これが信頼に値すると感じるための判断基準やセンサー、自らの体験によって構築されるそんな総合的な感覚を私自身の責任でしっかりと養っていくしかない。

それが確固たる自己の軸となり、他人にとっての"真実すぎる情報"に惑わされなくなるための唯一の方法ともいえそうです。

もはや、情報リテラシーとは教育で養えるものではないということなのでしょう。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとって、今日のお話が何かしら自分なりに考えるきっかけとなったら幸いです。

それでは、本年もどうぞよろしくお願いします。