最近読んだリースマンの『孤独な群衆』の中に、ものすごく心打たれるエーリッヒ・フロムの言葉が紹介されていました。

以下はそんな彼の言葉です。

どのような社会でも、それがうまく機能するためには、その成員が、その社会あるいはその社会の中での特定の階層の一員として"なすべき"行為を、"したくなる"ような性格を身につけていなければならない。かれらは客観的にみて、かれらに必要なことを、欲しなければならぬ。すなわち、"外的な力"は、"内的な強迫"に転化され、また、人間の特殊なエネルギーによって、それは性格の特性となるのである。


この部分のより詳しい内容が知りたくなり、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』も最近読み終えました。

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さて、人間はなぜ上記のような行動に出てしまうのか?

最終的には、誰もが自らの「孤独感」と「無力感」から逃れたいからだというのが、フロムの結論です。

そして、フロムが引用しているドストエフスキーの小説『カラマーゾフの兄弟』の一説が、見事にそのことを言い表してくれています。

「人間という哀れな動物は、持って生まれた自由の賜物を、できるだけ早く、譲り渡せる相手をみつけたいという、強い願いだけしかもっていない。」


この現象は、ものすごく思い当たる節があるような気がします。

つい最近まで、孤独感と無力感に苛まれていて絶望していた人間が、誰もが認めるわかりやすい権威を見つけて、その権威から認知してもらうことで、ものすごく生き生きとし始める瞬間を、これまで何度も見てきました。

そして、その権威から耳障りのいい言葉や、圧倒的に正しい(反論することができない)イデオロギーを吹き込まれて、そこにドンドンと染まっていき、いくらでもその権威のために自らを差し出そうとして、貢献しようとしてしまう。

でも、働くとは本来「私はなぜそのような決断をさせられているのだろうか?」という問いを、自らの力で解きほぐしていく行為だと、僕は思います。

つまり、その「決断」をしている自分自身をガチガチに理論武装していくのではなく、丁寧に薄皮を一枚ずつ剥がしていくような行為。

そこから「私とは何か、人間とは何か、この世界とは何か」を自分なりに問い続けて、私の生きる意味を少しずつ明らかにしていく行為が、僕が考える「働く」から得られる唯一の効用です。

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ただ、そのためには逆説的ではあるのですが、自らがちゃんとその罠にハマってみるしかないのも事実だと思います、(そのときには自覚はないかもしれませんが)

「孤独感」と「無力感」から逃げたくて逃げたくて堪らなくて、その結果として、「社会的性格」を身につけてしまっている自分に、私自身が「ハッとする」ところからしか、自己の物語は始まっていかない。

上述のフロムの言葉に、僕自身が強く反応してしまったのもきっと、身近な他者や自らの行動の不可解さに疑問を持ち得たからであり、具体的なさまざまな思い当たる節があったからです。

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そして、今この瞬間も、まさにそうなのかもしれない。

いわゆる「名著」の感想を自分のブログに書いている時点で「おまえは権威に擦り寄ろうとしているのだ」と言われても、決して言い逃れはできません。

つまり、人間が「孤独感」や「無力感」から逃れることは、もはや不可能なのかもしれない。

しかし、だからこそ僕がいま実践してみたいなと思うことは、そんな孤独感と無力感から無理に逃げようとしないことなのです。

それは、いつも隣にいるものとして受けとめる。

『千と千尋の神隠し』の後半、かおなしと千尋の関係性のように、ただただ隣に座ってみる。

同じように、遠ざけたい対象として「死」もそうかもしれません。

それらを極端に恐れない、怖がらない。自分の目の前から葬り去ろうとしない。

無理に相手をしてみたり、気を遣ってお世話したりするわけでもなく、ただただ、そこにあるものとして認識する。

人生という旅路における電車の中で、いつも隣に座っている存在であることをあるがままに認める、共にあろうとしてみる。

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あまりに無力で無防備な愚策だと笑われるかもしれませんが、今のところ自分にとって一番納得感のある方法なので、しばらくは自らで実践してみたいと思います。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。