2021年は「対話」の魅力を再発見する年でした。

そこで対話の原点を探りたいと思い、最近はプラトンの対話篇を読んでいます。

各書を読み漁る中で、「アポリア」の意味を改めて理解することができました。

アポリアとは、議論が行き詰まり、結論が出ないこと。そして、対話からまた新たな問いが生まれてしまうことです。

しかし、それは決してネガティブな意味ではありません。

アポリアに到達するからこそ、ひとは自分の「無知」を自覚することができるようになりますし、さらに対象について探究したいと思えるようになるのだ、と。

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自身のこれまでの経験を思い返してみても、「自分は何も知らなかった」と対話を通じて理解できたからこそ、より一層その対象に対して興味が湧いてくる経験を、何度も繰り返してきたように思います。

しかし、多くの場合「アポリア」が少し先に見えてきてしまうと、ひとはそこから逃げ出してしまう。

それゆえ、何かをわかったような気になったまま、全く別のことを取り組み始めてしまう。

具体的には、すでに知っていることを再現し続けることに終始してしまう。

たとえば、やり慣れた仕事や、お酒や親しみのあるエンタメのような結果が見えている享楽的なこと、または親や優れたリーダー、自分が産んだ子供など、他者の後をついていき、自分の人生を生きない嘘に陥ったりする。

でも、本来アポリアとは、先日このブログにも書いた「孤独感」や「無力感」と同様に、いつも私に隣にいることを認めることなのかもしれません。

少なくとも、それを理解することができれば、「アポリア」が見えてきたタイミングで、違う事柄に逃げ込まないで済むようにもなる。

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ほかのすべてに終わりがあったとしても、「問い続ける」ことだけには終わりがありません。

この、ある種の"居心地の悪さ"だけは、自分が生きている限り一生涯続いていくのだろうなあと。

まさに、終わらない問いの連鎖です。

でも、何かをわかった気になって、同じところをグルグルしながら知っていることだけを再現しづけることが人生だと誤解してしまうことよりは何倍もいい、と僕は思います。

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とはいえ、このような考え方を大切にするひとたちは、なかなか世間的には少数派だと思います。

だからこそ、対話を通じてアポリアに陥ること、それを恐れない人々が集まっている場をつくることが急務のように感じています。それが、このWasei Salonという場で実現したいことのひとつでもあります。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。