現代の社会を見渡すと、誰の目にも明らかなように、かつてより「優しい」社会が広がっているように感じられます。

人々がフラットにつながれる社会が実現し、「縦の関係」が世の中からどんどん減っている。

そして、その中での選択肢の自由やコンシェルジュ的なサポートやサービスも、多様化しているわけですよね。

しかし、それゆえにどこか違和感を覚えるひとも少なくないというふうに感じています。もちろん、僕もそのひとり。

それゆえに、哲学者・ミシェル・フーコーの議論などもも好んで読んできて、このブログでも何度かご紹介してきました。

そして最近、NHK出版から出ている『哲学史入門』という本を読んでいたところ、またしてもフーコーの話が語られており、非常に膝を打つような内容に出会いました。

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この本の中で、フランス現代思想の解説者である哲学者・宮崎裕助さんは、現代社会全体が今のように「優しく」なっていると指摘したうえで、かつての規律権力は、同質的な人間の集まりを囲い込み、それを取りまとめる垂直的な権威がなければ機能しなかったと言います。

それは、たとえば学校における教師のような存在。

しかし、現代ではそういった垂直的な関係は忌避され、社会が個人に対してドンドン「優しく」なってしまっているというのです。

「自分で決めていいですよ」と個々の意思を尊重してくれるのは、一見すると良いことのように思われますが、言われた側は「どう決めていいかわからない」という事態も起こりうるのだと。

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じゃあ、このような社会が当たり前になると、世の中はどのように変化していってしまうのか。

このあたりがまさに現代で起きてしまっていることを見事にわかりやすく言葉にしてくれていたので、本書から少し引用してみたいと思います。

すると今度はそれを見透かしたかのように、マッチングアプリとかリコメンドサービスといったコンシェルジュ的なサポートやサービスがたくさん出てくるわけですよね。自由な感じはあれこれ演出してくれるけど、実際には誘導されている。大きな失敗はできないようになっている。 
でもほんとうのことを言えば、自立した主体を築くにはしんどいことがいっぱいあるんですよ。サルトルが言うとおり、「自由の刑に処せられている」からこそ自立が可能になる。だけど現代では、真に自由な決断をしようとすると、社会はそれをフォローしてくれません。あくまでも演出されたかぎりの自由しか享受できないんですね。だから演出レパートリーから外れた自分だけの道を選ぼうとすると、いきなり荒野に立たされているような状況に突き落とされる。


この指摘は、まさに現代の状況を言い当てているように思えますよね。

真剣に選択をしようとしても、お膳立てされたサービスがあると、ついついそちらに頼ってしまう。

なぜなら、そのほうが圧倒的に楽だからです。自分で考えなくても済むからです。

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では、それを避けるために、垂直的な関係をそのまま回復させれば良いのか。

宮崎さんは、そうではないと言います。しかし同時に、人間が大人になるためには、垂直的な関係も絶対に必要だとも語っています。

この相反する二つの要素のバランスをどう取るべきか。それは簡単には答えが出ない問題であり、まずはこのような状況が現代社会に内在しているということを、僕たちはきちんと理解しておく必要があるんだろうなと感じます。

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で、この話を読みながら、僕は村上春樹さんが以前書かれていた「結婚式」の話をふいに思い出しました。

村上さんは1987年に書かれた『日出る国の工場』という本の中で、結婚式場を一つの「工場」に見立てて書かれてあり、この話が本当におもしろかった。

村上さん曰く、新郎・新婦という名で呼ばれる一組の男女が、工場の原材料であり、その機械的推進力は専門的ノウハウと手慣れたサービスであり、中心的付加価値は感動(あるいはもう少し控えめに情緒の高揚)であり、その需要を支えるのは世間一般の「しきたり・常識・習慣」であると語ります。

そして、結婚式工場では、今日も「セレモニー」というきらびやかな商品が生み出されているのだと。

これは、一見するとものすごく皮肉めいた表現に聞こえてしまうかもしれません。

実際、僕も読んでいるときにかなり嫌味な書き方をするなあと、思いながら読んでいました。

しかし、村上春樹さんは、このような「結婚式工場」的結婚式場のあり方を決して批判しているわけではないと断言しています。むしろ、その重要性を理解したうえで、以下のように語るのです。

少し本書から引用してみたいと思います。

 人々の多くはセレモニーを必要とし、それに伴うある種の感動を求めている。多くの人々にとって結婚式というのはそういうものだからだ。しかし彼らが求めているのは本物の感動ではない。彼らが求めているのは、始めがあってまん中があって終りがあって、適度にその機能を果してくれる把握可能な感動なのだ。 
要するに、それがセレモニーというものである。
世の中には入口があって出口がない感動もあるし、出口があって入口がない感動もある。人々をねじふせてしまう感動もあれば、人に小便をもらさせてしまうような感動も(たぶん)ある。しかしーあえて言うまでもないことだとは思うが、人々は結婚式場においてそのような把握不可能な種類の感動を求めているわけではない。


ここまではっきりと言い切ってしまうのかとも思いつつ、本当にそのとおりだなあと思いながら、僕は唸りながら読んでしまいました。

で、「それが『適度にして把握可能』な感動であり、把握可能であればこそ、金銭で売買することも可能である、というわけだ」とも結論付けられていて、まさにそのとおりだなと。

把握可能だから、売買の対象になる。まさに需要と供給が合致して「等価交換」が可能となる。

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さて、この話が、今日の冒頭の「優しい」社会にも見事につながるなあと。

つまり、言い換えると、現代社会っていうのは結婚式場という工場内だけでなく、社会全体が「結婚式場」みたいな「優しさ」や「感動」に満ちあふれているような世の中になったといえるのではないのか、と思ったんです。

安心安全なセレモニー空間が社会全体に漏れ出していている。

世の中がディズニーランド化しているみたいなよくある皮肉めいた話もきっとつまりはそういうこと。
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で、これって、web3の文脈にもきっとつながっていて、一向にこの概念が広がらないのは、まさにこのような「優しさ」を求める社会だからなんだろうなあと。

先日配信されていたリハックの動画の中で、ひろゆきさんが語っていた内容、賛否両論ありましたが、僕は一部は強く共感しました。

ビックテックの管理下に置かれていることを自ら望んでいて、誰かが逸脱しないように、裏側から丁寧に差配してくれていることを人々が積極的に望んでいる。それ以上でもそれ以下でもない。

だから、多くの人にとって、求めている社会というのはもうすでに実現していて、それゆえに、web3の思想だってまったくもって興味もない。

「自分で管理して、自己責任でどうぞ」という世界を望んでいるひとなんか、ほとんどいないわけです。それはごく一部の相当な変わり者たちだけ。テクノ・リバタリアンみたいなひとたちだけになってしまうわけですよね。

そして、それというのは同時に、犯罪者や詐欺集団にとっても、一番都合の良い社会を作り出すことにもつながってしまうというジレンマ。だからweb3自体の評判もだだ下がりなのが現状です。

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これは本当に難しい問題だよなあと思います。

現代社会は、フーコーの言う「規律訓練型権力」や「生権力」によって支配されているだけだと、と非難してみたところで、そもそもそれがどういう意味なのかを理解したいと思う人々は本当に少ないし、そんな話にも興味は持たれない。

これは決してシニカルで、冷笑的な話をしたいわけではないのです。うじゃなくて、何が正しいのかは、実のところ誰にもわからないと思うんです。

村上春樹さんも、結局はわからないという話で、以下のように、結婚式の話を締めくくっていました。

再び本書から少しだけ引用してみたいと思います。

人々(もしこういう言い方を許していただけるなら庶民)は自らが求めるものを、自らの金を出して、手に入れているーーそれのどこがいけないのだ?もっとつっこんでいくと、結婚式のどこまでが正しくて、どこからが正しくないのだ?結婚式のどこまでが必要で、どこからが不必要なのだ?どこまでが結婚式の核で、どこからが付属物なのだ?どこまでがシックで、どこからがジャンクなのだ?そして誰にそれを判断する権利があるというのか?僕にはわからない。わからないから判断は回避する。


ここから、当時の結婚式というものが、一体どのように”工場生産”されていくのかを具体的なカップルの話として描かれ、語られていく。

ここの部分は、本書の中でもものすごく筆がのっていて、よくこんなに細かいことまでネチネチと書き続けるなあ、ある種の狂気だなあと思いながら、僕なんかは読んでしまいました。ぜひみなさんにも読んでみて欲しい箇所です。

そして、村上春樹さんの作品を複数読んでいると、わからないものほど村上さんは没入して、狂気じみた書き方をしてくる傾向があるなと感じています。

何かがここにある、でもわからない。だから書く、それぐらいに、この結婚式場の話も違和感に満ちていて、答えの出ない問いだということなのでしょうね。

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現代に生きている以上、ビッグテックがそれに類似する企業が提供してくれる利便性を享受しないわけにはいかない。政府の福祉政策もちゃんとありがたく享受する。

でも、それと同時に、どこかで常に疑い続けなきゃいけないなとも思います。

さもなければ、宮崎裕助さんが『哲学史入門』の中で語られていたように、「優しい」管理社会というのは、生きることの苦労も喜びも含めて、生の活力を吸い取り、人間であることの尊厳を僕たちから奪っていくかもしれないわけだから。

だからこそ、少しでもそれぞれが考えるきっかけを、与え合うことが大切だなと思います。少なくとも、わからないことをわからないなりに問い続けたい。

いつもこのブログを読んでくださっている皆さんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となり、考えるきっかけになっていたら幸いです。