現代を生きる僕らの世代が飢えているのは、情報やコンテンツじゃない。

飢えているのは「擬似同期」なんじゃないか、今日はそんなお話です。

どうしても僕らは、自己の欲望を満たしてくれるのは広義の「情報」であり、それに類似したコンテンツや商品そのものだと思っています。

長年、消費文化の中で生きてきたから、それもある意味では当然のこと。

でも現代は、そのコンテンツだけが、無限に延々と供給され続けていて、それらが安価でなんなら完全に無料でビックテックを通して届き続けている時代なんですよね。

これが、何よりも人生をつまらないと思わせてしまう原因なんじゃないかと僕は思っています。

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なぜ唐突にこんなことを書き出したのかと言えば、先日久しぶりに発売された漫画『HUNTER×HUNTER』も『リアル』も意気揚々と購入したにもかかわらず、今も一切手を付けずに、積読のままになっていることにふと気づいたから。

読みたい意欲も大して湧いてこない自分自身に、なんだか結構真剣に驚いてしまいました。

「それはおまえが年齢を重ねて、自分自身が変わったからだろう」と言われればその通りなのかもしれませんが、それぐらいもう、コンテンツ自体にはお腹いっぱいなんだなて改めて思ったんですよね。

10代の頃には『HUNTER×HUNTER』も『リアル』にも本当に熱狂をし、新刊が発売されるごとに、全巻を読み返すぐらいの熱量は間違いなく自分の中にあった。

それぐらい両者の作者が描く漫画に飢えていたという実態が、ちゃんとあったと思います。

でも、もうそのコンテンツ消費に対する枯渇感や渇望感みたいなものが、まったくない。

もちろんそれは、作品自体がつまらないというわけではないので決して誤解しないでください。

実際に、読めばめちゃくちゃおもしろいと感じるはずであることもわかっている。そして読み終えたタイミングにおいて、読んで良かったなあとしみじみ思うはずなんです。

でも、じゃあそれがわかっているからといって手にとって読みたいかといえば、そこまでそそられるものではなくなってしまった。

この感情は一体何なんだ…?ということが、今日の主題でもあります。

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そのような世の中にも関わらず、現代はコンテンツをつくることが奨励され続けているような世の中でもあると思います。

それは過去に何度も語ってきたように、今は「傷ついたコンテンツ提供者」が多いからですよね。

そのコンテンツを提供することが、ビジネスになるともわかったから、そのための専門学校やスクール事業なんかも一気に増えた。

結果として、制作者のスキルの底上げにはつながったわけだけれども、成功する人間はその中のほんの一握りということになり、傷ついた提供者だけが圧倒的に増えていく。

そして、そのチャンスを、それでもなんとか掴もうとするひとが多く、自分が提供する側として成功するかもしれないと、思わせてくれる情報なんかをひたすらに追い求めているわけです。

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みんながそうやって一生懸命にコンテンツ、主にエンタメ作品、具体的にはアニメ・ゲーム・漫画などをつくろうとするけれど、今はもう本当に面白いものだけでも、それらが見切れないくらいに存在し、それを新たにつくっても、どうしようもない状況になりつつある気がします。

しかも、既存のコンテンツのクオリティーが低く、まだまだアップデートできる余地があるならまだしも、もう既存のものも圧倒的なクオリティーにもかかわらず、新たに作る意味とは一体何なのか。

これは、たとえば、インフルエンサーが手掛ける洋服なんかもそうですよね。

結局、ただただその「つくっている私」「その分野で成功している私」という地位に到達することだけが目的になっていて、それがゴールになってしまっているような気がするんです。

でも商品を含めた表現というのは、それは伝えるための媒介でありメディアであって、つまりは手段でしかないはずです。

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だとしたら、そうじゃなくて現代にはないもの、かつ自分たちが飢えているものをつくろうよ、って思います。

自分たちがもう全く飢えてないもの、むしろお腹いっぱいなものを、さらに新たにつくってみてもしょうがない。

だってもう十分に満たされているわけですから。それらが新たに生まれたところで、個々人の人生や社会が変化していくとも思えない。

そうやって、マーケティング的に発見されたニーズや欲望ではなく、自己の飢えや乾き、枯渇感や渇望感を満たすようなものを、それぞれが探求しなくちゃ意味がないよなと思うのです。

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さらに、僕らが憧れているようなレジェンドたち、たとえば手塚治虫や高畑勲、宮崎駿も、それらがまだまったくない時に、それでも必死でつくっていたはずなんですよね。

その凄さに対して、もっともっとちゃんと驚愕したい。

漫画やアニメは子供騙しだと、周囲から石を投げられているときに、淡々とつくっていたわけです。

自分の中にある矛盾や葛藤、その渇望感や枯渇感から生まれたコンテンツの結晶を、せっせとつくっていたはずなんですよね。

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で、話は少しそれますが、先日とある動画を観ていたら、東洋医療におけるがん治療にまつわる話が語られてあって、そのときに専門家の方が「不安な気持ちを『情報』で埋めようとしないでください」というメッセージを語られていました。

藁をも掴むような気持ちで、がんにまつわるエセ情報や眉唾の情報を掴まされないためのアドバイスとして、このような言葉を語っていたんですよね。

それを聴いたときに、なんだかものすごくハッとしました。本当にそうだよなと。

今日の話と全然関係ないし、ガンじゃない自分には関係がないと多くの人は感じるはずなんですが、僕はそうじゃないと思うんですよね。

ひとは、遅かれ早かれ死ぬことが最初からわかっている。だから結局、大きな視点で言えば、まったく同じことをしているなと思ったんです。

僕らは、このままの人生(余生)でいいのかと不安になるから、その不安を埋めるように情報やコンテンツを追い求めている。

言い換えれば、僕らはまるで、がん患者の方々がエセ科学にでもすがりたいような気持ちで、日々情報やコンテンツにすがりついてしまっているように思います。

でもその動画内でも語られていた話ですが、そうじゃなくてお互いにその不安を共有できること。

不安を「不安です」とちゃんと相談できる関係性。その構築のほうが、本来は大切であるはずで。

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このように、どの分野においても結局目指しているところは、かなり似ていて「擬似同期」の体験なのだと思っています。

それがコミュニティと呼ばれたり、推し活やライブ配信と呼ばれたり、ケアやカウンセリングやセラピーと呼ばれたり、読書会と呼ばれたり、いろいろとあるけれども、本当に飢えていて目指しているところは、そんな「同期体験」なのだと思います。

ちなみに、この擬似同期という言葉自体は、先日シラスの有料動画の中で、東浩紀さんが語られていた言葉なんだけれども、これは「出版業界は終わっても、出版文化は終わらない」という文脈の中で語られていたはなしであって、「ゆえの擬似同期体験が重要」だと語られていて、こちらも本当にそのとおりだなあと思います。

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人間は、究極、何をしたいのかといえば、お互いの「実存的な不安」を和らげるための場や空間、その集いであり、そのために介在しているのがコンテンツや商品だということなんだと思います。

これは今に始まったことではなく、古くは「宗教性」みたいなもの。

村上春樹風に言えば、何万年も前から、洞窟の中で寒さや暗闇の恐怖に怯えながら、肩を寄せ合っていた語られていた神話に物語の起源がある。

もちろん、人と人との関係性の間でもそうですし、それは、より大きな物語へ自己を付託をするというような事柄でもある。

それが、宗教や物語のひともいるし、大企業のような組織のひともいるし、国家や地域など何かしらのナショナリズムのひともいる。そのジャンルはさまざま。

でも、自分よりも何か大きなものに付託するということは、いつの時代にも人々が変わらずにやり続けていることだと思うんですよね。

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大事なことは、一瞬の共感ではなく、もっと持続性のある共鳴のほう。共に響き渡ること、余韻までも共に楽しめること。

まさに「閑さや    岩にしみ入る    蝉の声」みたいな話ですよね。

騒がしい蝉の声そのものではなく、それが岩に染み入るという情景そのものを「あわれ」と思える情緒の普遍性。

そういった、いつの時代も変わらないであろうと思える「真っ当なもの」に自己の感情を付託できる安心感みたいなものを、ひとは求めているように思います。(あまりうまく言えないですが)

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言い換えると、日常が退屈すぎて、不安だからという理由、人々はひっきりなしにライブやフェスなど、この瞬間のハレの日でつながろうとするわけだけれども、それはむしろ逆に喉が乾くだけだと思っていて。

それっていうのはアルコールで、のどの乾きを癒そうとしているみたいな話。逆にドンドン水分を求めてしまうし、翌朝の二日酔いがひどくなるだけ。

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じゃあ、それは具体的にどんな場なんだ、と聞かれてしまうかもしれないけれど、それは僕にもわからない。

消費でつながらない、かといって創作活動における「なりたい私」幻想でもつながらない。

もっと、深く楽しみ、深く味わう。それがきっと、問いでつながるということでもあると思います。

そんな場を淡々と実現していけたらいいなあと思っています。

一人一人が、自分の中にある本当の渇きに対してしっかりと耳を傾け、共に探求していく過程。なんなら、そのわからない中で探ろうとするプロセス自体が、僕たちが本当に求めている「擬似同期」そのものでもあるということなのかもしれないなとも感じています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となっていたら幸いです。