最近、都内の電車に乗っていると、男性向けのヒゲの永久脱毛の広告が増えたなあと思います。
男性でも当たり前のように身だしなみに気を使い、脱毛する世の中になったということなのでしょうね。
そして論理的に考えたら、毎朝ヒゲを剃るのであれば、多少お金をかけてでも永久脱毛をやったほうが「時短」にも繋がって、結果的にコスパもタイパも良いとされるのだと思います。
きっと、そのような論理に導かれ、実際にエステに通う若い男性のビジネスマンも増えているということなんでしょうね。
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でも、なんだか、正直この広告には居心地の悪さがつきまとうのも事実だと思います。
それは何かジェンダー的な観点からというよりも、それ自体が自然の摂理に背いているような感覚に陥るからなのかなあと。
つまり、この違和感というのはきっと「完成形」が最上級であるわけではないと思っているということです。
むしろ僕らは、常に手入れをしていることのほうが「自然」で、どこかでそっちのほうが「健全」だと信じている証でもあると思います。
で、そんなことをモヤモヤ考える中で、現代は永久脱毛の幻想にとらわれている世の中なのかも知れないなあと思いました。
今日はそんな一風変わったお話を少しだけ。
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この点、どれだけ万人にとって理想的な状態であっても、その時間の経過から生まれる「変化」みたいなものを止めようとした瞬間にそれはもう自然ではなくなる。
その瞬間に人工になる。それは言い換えると、ひとつの正義でありイデオロギーとなるわけです。
つまり、何か明確に「美的調和」を求める一方で、それと同時に常に循環していないと僕らは信じられない認知的特性みたいなものも同時に持っているのだと思います。
うまく伝わるかどうかはわからないのですが、そこに退廃していく様子も存在しないと美しくない、どこか胡散臭く感じてしまうということなのでしょうね。
言い換えると、「美」と同じかそれ以上に、時間の経過とともに訪れる「自然」のほうも重要だと信じているということです。
だから永久脱毛のように、時間を止めようとしたり、変化を止めようとしたり、何かそういう入れ替わる細胞分裂のようなものを止めようとした瞬間に、違和感を感じる生き物なのだと思うんですよね。
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さて、この点まったく文脈が異なるのだけれども、このようなことを漠然と考えていたときに、ふと内田樹さんが語る「メディアの公正中立」の話を思い出しました。
内田さんは以前もご紹介したことのある『街場の成熟論』の中で、メディアの公正中立という態度は、何か「公正中立な言論」なるものが自存するわけではないと語ります。
それが一体、ここまでの話とどう関連するのかと思われてしまうかもしれないですが、以下で早速本書から少しだけ引用してみたいと思います。
理屈を言うが、メディアは単体として「公正中立」であることはできない。「うちは不偏不党にして公正中立なメディアです」といくら訴えてみても誰も信じない。公正中立とはさまざまな異論が自由に行き交い、時間をかけて「生き残るべき言葉」と「淘汰されるべき言葉」が選別される言論の場を維持するという行為そのもののことである。「公正中立な言論」なるものが自存するわけではない。自由な言論が行き交う場は「生き残るべき言葉」と「淘汰されるべき言葉」を識別できるだけの判定力を持っているという信認のことである。対話の場の審判力を信じることを止めれば「公正中立」の居場所はなくなる。
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で、もちろん、勘の良い方には既にお気づきのように、これはそのまま以前もご紹介した東浩紀さんの「訂正可能性」の話にもつながるかと思います。
変化していないようで、変化しているという、そのふたつのことが同時に起こることが、いま僕らにはものすごく大事なことだと思うのですよね。
逆に言えば、そういうときにこそ、僕らは変わらない「何か」が続いていると信じることができるのだということです。
今度は、東浩紀さんの『訂正可能性の哲学』の書籍の中から、再度そのようなことについて言及している箇所を引用してみたいと思います。
子どもはすぐに仲良くなる。そしてすぐに飽きてしまう。だから、ずっと同じ子どもたちが同じ場所でひとつの遊びを続けているようにみえたのに、よくみるといつのまにか最初の子どもたちはいなくなり、すっかり参加者が入れ替わって、遊びの内容もべつものに変わっているということもめずらしくない。
ぼくがここからさき「家族」と呼ぶのは、そのような子どもの集団をモデルとする共同体のことである。そこでは、みながずっと同じ遊びを続けているはずなのに、なにもかもが柔軟に「訂正」され続ける。
これは「子どもの遊び」における離合集散の話ですが、そのまま細胞分裂の話なんかにも当てはめて言えることだと思います。いわゆるアポトーシスみたいな話も想起してしまいますよね。
ずっと変わらないように見えて、その細胞は毎日入れ替わっていて、全く別のものになっている。だから僕らは、そこに変わらない「健康」や「健全」を見て取るわけじゃないですか。ヒゲや髪の毛みたいなものも、その変化がわかりやすく見て取れるものだと思うのです。
それを永久に止めようとするのは、やっぱりどこかで少し気持ち悪く感じてしまう。どれだけ美しく整っていても、そこに人工物的な感情を抱いてしまう。
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ここで、今度は養老孟司さんの言葉を借りてみると、これはまさに「手入れ」の話にもつながるはずです。
以前もご紹介した『まともバカ』という本から、少しだけ引用してみたいと思います。
いちばん極端な人は、とことん人工の世界まで持ってこなければ気がすまないといって、美容整形をします。思ったようにしないと気がすまない。それができないといって、ぐちゃぐちゃになってしまう人がいる。自分のからだ自体が気に入らないというので、 抹殺 しようという気持ちが起こってくる。 拒食 になってきます。 自然というのは、ある意味では非常に安定したものですから、ほんとうは自然に 任せておけばいいんです。しかし、完全に自然に任せておくと、とても人間には見えなくなってしまいます。皆さんもあるお年になれば毎日やるでしょう。人間のほうに引っぱるという努力のことです。お化粧をする。鏡を見て一時間も二時間も、自然を人間にする努力をしています。 それではその結果どうなるか。先行きは見えません。見えないのだけれども、どこか適当なところで納まるだろうと思っています。これを手入れといいます。手入れというのはこういう観念だと思います。
養老さんが語るように、自然というのは、ある意味では非常に安定したものですから、ほんとうは自然に任せておけばいいんです。
でも、それだと、とても人間に見えなくなるから、手入れをする。それが本当に大切なことであり、逆に言えばその手入れの範疇を超えてはいけないのだと思います。
にも関わらず、完成形の頂点を目指して邁進してしまう。
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そういう意味で人間の「意識」って単純にバカなんだろうなあと思うのです。
バカっていう言葉が語弊があれば、圧倒的なバグがそこにはある。世界の実態との圧倒的なズレが存在すると呼んでもいい。
意識だけに頼ってしまうと、ここを踏み間違えてしまうということなのでしょうね。
僕らは、インスタ映えを狙ったような写真を見て、その写真のような状態を目指すわけですが、そのような写真の一点なんてこの世界にはどこにも存在しない。
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でも僕らは、その理想的な一点、その完成形の状態を目指して日々邁進してしまう。あたかもそれが、存在するかのようにです。
冒頭のヒゲの永久脱毛のようなことを捉えると、同じような生態系であるはずの社会や世界に対しては永久脱毛が可能であり、それこそが理想だと思う不思議があるなあと思ったんですよね。
これがまさに、現代は永久脱毛の幻想に囚われていると僕が思う点です。
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人間に可能なことは、常に生成変化してくるものに対して、ただひたすらに手入れしているような状態。
僕らがデキるのは、その対象とのラリーやキャッチボール、対話や会話のようなものを丁寧に繰り返すことだけです。このときに何かを明確に目指しているものがあるじゃないはずなのです。
その循環、入れ替え可能性が担保されている状態というのは通過点のように捉えられると思うのですが、それこそが実は到達するべき「ゴール」」でもあるということです。
でも、この循環というものは決して目には見えない。説明することができない。
サン・テグジュペリの『星の王子さま』の中で、「大切なものは目には見えない」とはによく言ったもので、本当にそのとおりだなあと思います。
逆に言えば、今この瞬間からその本当に到達するべきゴールにはすぐに到達できるし、一生到達できないとも言える。
禅問答のように聞こえてしまうかも知れないですが、なんだか最近は本当にそう思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。