オンラインサロンようなクローズド空間をつくりだすときに、多くの主宰者(オーナー)が望むのは、コミュニティが勝手に自走しているような状態です。

具体的には、オーナーがその場にいなくても、続いているような空間。

そうやって、特段何も手入れなんかをしなくても、自分がつくった広場で思う存分、参加しているメンバーが自由に遊んでいて欲しいと願うのが、一般的だと思います。

もちろん、このような願望は、よく語られるように、収益的な意味での期待、具体的にはそうやって不労所得のようなものが入ってくることを、多くの方が望んでしまう部分もあるからなのでしょう。

でも、収益の話だけに限らず「コミュニティ」と言葉にしたときにイメージするものは、トップダウンで何事も決まってしまうような軍隊や会社組織のように指示待ち部隊ではなく、自走しているような状態、そのような姿を望むからだと思います。

いわゆるビオトープ的な空間、老子の語る「小国寡民」のような世界観を追求してしまうのは、当然と言えば当然の帰結であり、期待なのだと思います。

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でも一方で、こちらも本当によく語られることですが、ちゃんと続いているオンラインサロンやコミュニティ、その実態においては、大体の場合「有料メルマガ形式」になってしまっているのが実情なんですよね。

つまり、主宰者が何かコンテンツを毎日投下して、それをメンバーは有料で受け取り続けているというような状態です。

「だったら、有料メルマガやnoteの有料マガジンででいいのではないか…?」と思うはずなのだけれども、現代社会においては、届けられたコンテンツを他者がどのように解釈するのかにも非常に価値がある。

つまり、他のメンバーの解釈、そのコメント欄を見ることにもお金を払いたいと思わせる価値があるということですよね。

自分と似たような状況にある他のメンバーが、何を考えたのかを何気なく眺めることができるのが、有料のコミュニティの存在意義のようになっているところが大半だと思います。

要するに「有料メルマガ+書き込める人間が限定されている治安の良いヤフコメ」というのが、うまくいっているオンラインサロンの嘘偽らざる実態だと思うわけです。

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で、ここからが今日、僕が主張したい本題に入ってくるのですが、オンラインコミュニティを自分自身が5年以上続けてきて今思うのは、とはいえ、そのような状態だと主宰者は次第に辛くなる、ということです。

具体的には、有料の空間に、自分が毎日投稿し続けるコンテンツしか引き留めるものがないのはメンタル的にも非常に辛いし、普通のひとはそこに耐えられなくて死んじゃう。

実際、サロンを始めた大体のひとたちが、その実態を理解した結果、毎日更新を諦めて、自らの主宰するコミュニティを断念していったように思います。

想像していたような、左うちわで運営できるオンラインサロンに比べたら何倍もむずかしいものですし、そうやって一生懸命に頑張ったからといって、オンラインサロン単体の費用対効果は明らかに全く見合わないからです。

だから、続いているのは、そのような血のにじむような努力を厭わないひとたちであって、そもそもサロンがあろうがなかろうが、毎日更新せずにはいられない人たちだと思います。

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で、ここでさらに重要になってくる視点というのは、自分が毎日出し続けることは、非常に重要なことなのだけれども、でもソレと同時に、自分のコンテンツがそのコミュニティの中心のコンテンツになっていないことが本当に重要だなあと。

あくまで、主宰者が毎日提供するコンテンツというのは、常にメンバーの活動のヒントや、気付きや発見の呼び水であるような状態が理想的だと思います。

でも、このときにおいて多くの主宰者は必ず、こじらせるフェーズに入ってくるんですよね。

明らかにコミュニティにおけるメインのコンテンツが、自分がつくり出したソレじゃない状態となっていって、「自分のコンテンツは、必要とされていないのかもしれない」と思い始めてしまうからです。

逆に言えば、自分の考え方や主張を世に知らしめたいから情報発信を始めて、読者をつくり出した人間にもかかわらず、そのような承認欲求が、決して満たされないわけです。

大体のオーナーは自分のつくったコミュニティなのだから、自分のコンテンツが中心ではないなんて、けしからん!と考えるようになっていく。

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でも、そうやって無視されつづけながらも、それでも出し続けているというのが実は本当に一番いい状態であり、理想的な循環なのですよね。

ここが今日、本当に強く強調しておきたいポイントです。

真のコミュニティを目指す限り、あくまで主体はコミュニティメンバーが作り出すコンテンツであるべきで。

しかも、そのコンテンツというのは、誰か特定のメンバーが主体となったコンテンツではなく、そのコミュニティの流動性や循環の中で自然発生的に生まれてくる誰のものともいい難いコンテンツであるというような状態を目指す必要がある。

ここが本当にむずかしいポイントだと思います。

そのためにこそ、主宰者自らも毎日惜しみもなく淡々とその場にコンテンツを提供し続けること。

中心の「存在」としか呼べない「何か」に対して、日々生贄を捧げるようにです。

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この「存在」みたいなものは、コミュニティの中心で煮えたぎる大きな釜のようなものであって、きっと底知れない「虚無」であって、「神」概念みたいなものでもあるかと思います。

この誰でもない中心の存在が動き出さないと、コミュニティの真の価値や意味は存在しない。

それが存在しないコミュニティは、神社の境内で繰り広げられる「縁日」のようなものでしかない。

もちろん、縁日自体にも大きな価値はあるのだけれども、あくまでそれは神社という表面的な土地を用いた催しものでしかないわけです。

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最後にまとめると、現代の成功しているように見えるオンラインサロンも形を変えたそんな1対nのメルマガ的な受発信にすぎない。

オーナー(著者)と読み手(コミュニティメンバー)のインタラクティブなコミュニケーションというのはそこにもちゃんと生まれているけれど、それがほんとうの意味で、コミュニティなのかと言えば、僕には疑問が残ります。

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もっともっとコミュニティの可能性を探らないと意味がないなあと、僕は思います。

そのためには、うまくいく有料メルマガ形式からの脱皮する必要がある。

そして、そのうえで「主宰者ならざるもの」「人間ならざるもの」が中心で動き出さないといけない。

最近『カラマーゾフの兄弟』を読んだり、映画『福田村事件』を観たりしたため、ついついこのような表現をしてしまいますが、それは群像劇の中で立ちあらわれる「亡霊」のようなものだと思います。

まさに「多声性」や「ポリフォニー」のようなもの。結果として、鬼が出るか蛇が出るか、それは誰にもわからない。

でもそれが、神社みたいな場所におけるその境内だけではなく、本殿も含めた真の価値なんだと僕は思います。

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最後は、宗教性も絡んだような抽象的な話になってしまいましたが、とても重要なことだと思うので、伝わらない可能性が高く蛇足になるとも思いつつも、いま思うことを正直に記載しておきました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。