「穏やかな暮らしをしたい」と思いながら、今年はほとんど家を持たずに過ごした。そして、先日から家を借りた。久しぶりに家があるのは、なんだか不思議な気分で、こんなにも落ち着いたものなのかと、今さらながら驚いた。
自分にとっても、誰かにとっても、穏やかな暮らしというのは、何をもって構成されていくのだろう。家があるから穏やかと言えるのか。きっとそういうことでもない。だけど、自分にとって、家を持たない選択は、やむを得ないものであった。
平穏な日々というのは、些細に思えるようなことでも、突如として崩れていくことがある。以前と比べて、あまりにも変わってしまい、どうしたって元に戻せない。それでも、どうにかして生きていく。生きていくことの後に、出来事があるのかもしれない。
スペインのバルセロナに着いてから1~2週間、ひたすら部屋探しをしていた。仮として泊まった宿のホストはとっても親切で、ピアノが上手く、部屋は清潔だったが、1階で内向きの部屋にはほとんど光が入らず、なんだか独房みたいだった。縛りのない待遇最高の独房。
部屋探しは大変だった。「ピソ」と呼ばれるアパートメントに、複数人のシェアメイトと共同で暮らすスタイルを選んだ。スペインでは一人暮らしをすると、とても高くつくから。
特にバルセロナのような都市では、ピソの競争率が高いので、貸主に媚びた連絡を送りまくり、それでも返信が来ないという日常が続く。返信率を上げるために、必死で文章を添削するのは、なんだか虚しかった。だけども、たとえば、また他の国で部屋探しをするときは、きっと同じことをするのだろう。生きるために必死なことと、違和感を持ち続けることは、常に共にある。
募集中で最低条件を満たす物件には、ほぼ全て連絡を送ってしまうと、とあるピソのオーナーから、内覧が可能だと連絡をもらった。他のピソの返事は期待できなかったので、「ここでダメだったら、もうバルセロナ以外で探すしかない」というぐらい、追い詰められていて、ずっと険しい顔をしていた。
正直、全く期待していなかった。だが、行ってみると、思っていたより素敵なところで、オーナーは親切かつ適切な情報を開示してくれるフェアな人で、その場で住むことを決めた。そして、その日のうちに無事に確定となった。後日、契約を交わした。
どこかに住み始めるには、様々な人と"約束"をしないといけない。承認する側も相当大変なんだろうなと思う。ただ、転入届やビザの申請などを行う度に、「なぜ社会からその場所で生きることを承認されないといけないんだろう」と、どうしても、腑に落ちなかった。制度の歴史を知りたいと思いつつ、「なぜ家賃を払う人と貰う人がいるのか」という疑問とともに、きっといつまでも燻っている問いなんだろうと思った。
ただ、ピソ探しが難航して、気分転換にと、街をぶらぶらと歩いていたとき、「住もうと思えば、どこにだって住める。ただ、制度によって住めない場所があるだけ」と、ふと思った。
決して住めない場所があるという結論ではなく、いや住めない場所だらけではあるんだけど、自分がどんな状況になっても、どこかに住むことは、思いがけず選べてしまうんだろう。たとえ、ビザが下りなくとも、共に暮らす人の状況があろうとも。
ピソは「Sants-Montjuïc」というエリアにあって、街の中心地ではない。そこには「Montjuïc(ムンジュイック)」と呼ばれる、バルセロナの街並みを見渡せる丘があって、ちょうどその麓の辺りにピソがある。
Montjuïcの周辺は、自然が豊かで観光客も少ない。街の方からバスやケーブルカーで登れるので、頂上付近には観光する人もそこそこいるが、広大だし、麓に立ち寄る観光客など誰もいない。
このMontjuïcという丘の麓に住めたことを、結構気に入っている。時間がある日は、Montjuïcに登って散歩している。別にこのエリアに住みたかったわけでもなくて、間一髪、どうにか、ここに流れ着いたという感じだ。
あるとき、「港町で生まれていない俺はどうしたらいいんだよ〜!」と、とある人に嘆いた。港町で育ち、その風土をたっぷりと吸収した人たちは、人と協力して居場所を作り、人に開いていくことを、自然にしている気がした。
公共性という言葉に始まり、開いていくことのおもしろさを知れば知るほど、「自分は全くもって向いていない気質だ」と痛感する。風土が人を構成する要素だとも思わないし、むしろ気質というものは、目の前の相手との関係の後に現れるものだと思いながらも、どうしても、「港町で生まれたかったなぁ」と、当てのない想いを口にしたくなる。
距離感なのか、頼ることなのか、とはいえ風土なのか。自身が積み重ねてきた前提を崩されたくないと思ってしまうのは、これ以上崩されたら、どうにもできないという恐れがあるんだろう。ただ、ささやかな抵抗はしていたいし、思わずしてしまうものだ。そして、予測できない状況になっても、その偶然性を引き受けて、きっと何とかしていくという信頼は、か細くも抱けている気がする。
Montjuïcからバルセロナの街並みを眺めていると、穏やか気持ちになる。街中は好きな場所も多いが、人が多すぎると疲弊してくる。誰かと話しても、ある程度で切り上げて帰りたくなる。
だけど、丘の麓に帰り、夕暮れの中で丘に登り、そして街の輪郭を確かめるに見つめてみると、確かにまたあの街へ行こうと思える。そういった往来は、なぜだか落ち着く。
どうしようもなく、港町で育つことは叶わなかったが、丘の麓で暮らし、たまに丘の頂上へと登り、そこからの距離感で街を見つめることは、自分にとって、きっと暮らしのままならなさを引き受けようとする行為なんだろう。どのくらいこの丘の麓で暮らすことになるのか、ここを離れるときに何を感じるのか、全く予測できないと淡々と思う。
恐れは想定外に陥ったとき、自身の素直さを覆い隠そうとする。だけど、いつだって、ままならないまま、時間は流れ、はたらき、ぐるりと旋回するように生きていく。人々は螺旋のような軌跡を辿る。孤独も同じではないか。孤独という螺旋を巡って生まれた言葉は、剥がれ落ちるように書きつけることで、恐れや人々と共存していく道を紡いでいくのだと思う。「ままならず螺旋する」は、はたらくことと書くことを繋げる自身の試みであり、恐れや人々と共に生きていくための探求の記録である。
リビングの窓際に鏡が置いてあって、なんでだろうと思っていたら、朝起きると陽の光が鏡に反射して、室内をじんわりと照らしていた。え、考えた人天才かよって思った。生活の知恵だなぁ。