現代は、「時短レシピ」といった言葉に代表されるように、「時(とき)」は「短縮」できるものだと捉えられています。

世界が商業中心主義へと変化して「時は金なり」が当たりまえの価値観となったことによって、時間もお金と同様に自由に伸び縮みさせられるようになったことが大きな原因だと思います。

言い換えれば、時間を自由に伸び縮みさせることで、自らの資本に対してレバレッジをかけられる仕組みを、人間がつくり出してしまったということでもある。

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しかし、本来「時」とはそのようなものではなかったはずなのです。

この点、明治以前と以後で日本語における「時」の捉え方が大きく異なった。そんな非常に興味深い説を河合隼雄さんと谷川俊太郎さんの対談本『魂にメスはいらない    ユング心理学講義』という本の中で見つけました。

以下で少し引用してみます。

ー引用開始ー

大野晋さん(国語学者)によれば、日本の「時」という言葉は、もともと明治以降の近代化された時間感覚とはまったく違ったものだそうです。そして大野さんは非常に大胆に、「時」は「解く」と同じ語源じゃないかとおっしゃるんです。 「ひもがほどける」とか「氷が解ける」とか、そういうふうに日本人は時間というものをとらえていたという見方なんです。この考えが学界でどこまで承認されるのかについては、大野さん自身も仮説だとおっしゃっているからわからないんだけれども、もしそうだとすると、西洋人の時間感覚とはまったく違うという気がします。

ー引用終了ー

僕は、この説にとても強く共感します。

なぜなら、地方にいくと、まだかろうじて「解く」で捉える「時」を実感することができるから。

たとえば季節の移り変わりなんかも、決して短縮することができません。

「あー、早く春になってくれないかなあ」と思っても、冬という季節が解けるまでは、絶対に次の春はやってこない。

つまり、相手の「解ける」ペースに合わせることが「時」を重ねるということの本来的な意義だったはずなのです。

それは以下のブログにも書いたとおりです。


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そして、この「時」の感覚は、他者との対話の場面において、最も顕著に現れていると感じます。

次で引用する文章は、河合隼雄さんと鷲田清一さんの共著『臨床とことば』という本の中に出てくる一節なのですが、相手との対話の際に「時を重ねて待つこと」の重要性がとてもわかりやすく語られています。

ー引用開始ー

自分がどんなことを言おうとも、そのままそれを受け入れてもらえるという確信、さらには語りだしたことで発生してしまうかもしれないさまざまの問題にも最後までつきあってもらえるという確信がなければ、ひとはじぶんのもつれた想いについて語りださないものだ。

なぜか。語るということは、他人の前でじぶんが多重化すること、つまりは着地点が見えないままじぶんを不安定に漂わせるということであり、つまりはみずからを無防備にする行為だからである。そんな危うい姿をひとの前に晒すことはない。

(中略)

だから、語りの手前で、言葉の宛先として承認されることがなければ、語りは生まれない。だから、語りの手前で、 急かすでもなくじっくり待つ、つまりは時を重ねるということがどうしても必要になってくる。

ー引用終了ー

「相手の時を待つ」とは、「相手の言葉が解けるのを待つ」ということでもあるのだと思うのです。

そこに短縮できる時間なんてものは、始めから存在していない。

短縮しようとすればするほど、逆に言葉は逃げていってしまう。

だからこそ僕は、ネット上においても、神社仏閣のように橋をかけたり、鳥居を置いたりしながら、「こちらとあちらは、別世界ですよ」と区分けられた空間が必要なのだと思います。

「ここからは『時の流れ』が明確に異なりますよ」と。

ネット上の「アジール」と言い換えてもいいかもしれません。

その役割を、このWasei Salonというオンラインサロンで担えたら、とっても嬉しい。

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「時の流れ」さえ変わってしまえば、あとはみんながそれぞれに発見していくのですから。

各人が耳を澄まし、他者の声なき声を聞こうとする瞬間に、各々が内発的に獲得していく「何か」というのは間違いなく存在する。

それはこのサロンに入ってくださったメンバーさんに起きたさまざまな変化を見せてもらっても、本当に強く実感します。

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有益な「情報」や「知識」「テクニック」が飛び交う場ではなく、相手の言葉が解けるのを待ち合える空間。

そんな現代における稀有で本来的な「時の流れ」を共有できる場として、これからもこのサロンを守り続けていきたいなあと思っています。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。