人間が幸福を感じる瞬間とは、自らを「喜び」で満たしたとき。

このことに異論があるひとは、まずいないと思います。

しかし、「喜びを満たすこと」がそれすなわち、「自らの欲望を満たすこと」だと多くのひとが誤解してしまっている。

三大欲求にとどまらず、「マズローの五段階欲求説」に書かれているような、ありとあらゆる「自己の欲求」を満たすことが、自己の幸福であると勘違いしてしまっているひとはあまりに多い。

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でもその誤解を実際に実践していると、いつまで経っても満たされることはなく、「このまま進んでも一生救われないのでは…?」という漠然とした不安も生まてくるはずです。

だからこそ、逆説的に「欲望を滅した方がいい」という仏教やストア哲学のような話も生まれてくる。

でもここには、他者を導くための「嘘も方便」も見え隠れしています。

客観視した状況は確かにそう見えるのだけれも、実態はそうじゃないというような。

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この点、「欲望」や「欲求」というのは、個々人の中から絶対に消えることはありません。

むしろこれがあるからこそ、人間は生命を保つことができる。そして自らを絶えず「成長させること」もできる。

でも、その欲求の働きで得られた「成長」を、またその個人の欲求を満たすために活用してしまうから、そこに苦悩が生まれてしまうのです。

なぜなら、自らの欲望に対して「執着」がそこに生まれてしまうから。

そうではなく、正しく「欲求」から距離を置くこと、執着をしないことが大切なのだと思います。

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では、具体的にどうすれば欲望から距離を置くことができるのでしょうか。

まずは、自らの感情を丁寧に日々観察すること。これは何度もこのブログに書いてきました。

そして、こちらがいちばん肝心なことだと思うのですが、「他者が喜びを感じる瞬間が、自己の本当の喜びにつながる瞬間なのだ」ということを本心をもって悟ること。

「人から与えてもらうときよりも、自らが与えるときの方が本当の喜びが自らにもたらされる」のだと。

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この逆説的な話が、簡単なようでものすごく難しいのです。

一歩間違えれば、簡単に「自己犠牲」の論理に巻き込まれてしまうから。

対人関係では「共依存」へとつながり、集団関係では「お国のために」や「会社のために」という論理で、独裁のイデオロギーの中にすぐに取り込まれてしまい、都合よく用いられてしまう。

本当に紙一重の話なのです。

だからこそ、ソクラテスもキリストもブッダもみんな、文章で彼らの思想を残そうとしなかったのでしょう。

丁寧に目の前の個人に合わせて「方便」を用いて「自ら問い続けること」を促すことができる場合はまだ良いのですが、

それができない「情報」として後世に残してしまうと、そのせいで一国が滅びることがあり、最悪の場合はこの世界そのものが滅してしまうから。

彼らが文章を残そうとしなかった理由は、様々あるとは思いますが、僕はそれがいちばん大きな原因なのではないかと考えます。

でも、本来の真理はここにある。

真理は必ず間違っているとは、そういうことです。

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「他者に喜んでもらって、その喜んでもらった結果、生まれた余剰をみんなで分け合おう、みんなで味わおう」その繁栄の仕方を選んだのが人間(ホモ・サピエンス)という生物です。その答えに何万年もかけてたどり着いた末裔が僕らなのです。

このときに、各人に「お先にどうぞ」という精神がなければ、どれだけあっても絶対に足りなくなる。

でも、参加しているメンバーの中の幾人かでも、今日語っているような話を本当の意味で理解できていたら、絶対に足りなくなることはありません。

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最後に大事なことなので、繰り返しますが「個人の欲求」というのは、絶対に一生死ぬまでなくならない。

それはどれだけ聖人君子と呼ばれるようなひとであっても、仙人と呼ばれるようなひとであっても、同じです。

それが人間にとってのいちばんの原動力であり、その湧き出す欲求がなくなることは、すなわち死に直結してしまうことだから。

だからこそ、正しく用いて、距離を保ち、執着しないこと。それが本当に大事なことなのだと思います。

そして、人間にとって本当の意味での喜びを味わい尽くすこと。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても今日のお話が何かしらの参考になったら幸いです。