個人の利己的な振る舞いが限界を迎え始めて、共同体を大切にする利他的な振る舞いを行いたいと願う若者たちが増えてきました。

その中で、主語が「私」から「私たち」に変わることが、とても好意的に捉えられているように思います。

たとえば「私の未来を奪うな、私の地球を奪うな」というメッセージはなんとも強引で利己的な印象を抱くけれど、「私たちの未来を奪うな、私たちの地球を守れ」と主語を変えた瞬間、とてつもなく尊いことを言っているように聞こえてくる。

だからこそ、自らもその発言に陶酔していく。「私たちは、より大きな共同体(他者)のために良いことをしているのだ」と。

その結果、自らの中に存在する善悪の判断基準に従って、他者に対して少しぐらい強要したって構わないのだと錯覚してしまうのでしょう。

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ひとは、自分よりも大きな存在を後ろ盾にできたと感じたとき、いくらでもその権威を背景にして、非情に振る舞うことができてしまいます。

それは歴史上の「官軍・賊軍」といった対立構造などに見事に表現されていると思います。

だからこそ、社会運動家と呼ばれるような人たちは「善人」と「悪人」という二項対立をつくりだし、自分たちこそが官軍であることを国家や世界(グローバル)に権威づけてもらって、敵対する相手に対し必死に「悪人」のレッテルを貼ろうとする。

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でも、これらの行いが過去に数多の過ちを犯してきたことは間違いありません。

だとすれば、私たちができることは「だから、私は○○する」という主語が「私」の個人的な行動にとどまるしかない。

「私たち」という大きな主語で語らないこと。

もし「私たち」という言葉を本当の意味で使うのであれば、「私たちの○○のために、私は○○する。」が本当です。

そんな孤独な行い、そこから生まれてくる問いや気づきしか、人には伝えられない。その上で、その姿に共感するひともいれば、何も感じないひともいるでしょう。途中まで参加して、離脱するひとだっている。

そのときに、「なぜ私がこんなにも正しいことをしているのに、あなたたちはわかってくれないんだ!」と他者に強要したくなる気持ちもわきあがってくるかもしれませんが、それは大抵の場合、見当違いのことがほとんどです。

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ここまで書いてみて、なかなか上手く言語化できなくて本当に申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、

SNS上での社会運動や、クラウドファンディングなど他者を巻き込む行動が現代的なトレンドになってきている今だからこそ、孤独を恐れずに、ひとり淡々と立ち向かうことの重要性が、より一層増してきているようにも思うのです。

私が「私」という主語のもとに、信念を持って「私たち」のために行動している姿以上に、人々の心を打つものはないのですから。

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現代における「錦の御旗」とは何なのか?そうやって大きな旗の色ばかりに注目してキョロキョロ見渡すのではなく、本当に自分が掲げたい旗とは一体何なのか。

自己の内面と向き合って、ちゃんと他者と対話し、自らの旗を小さくてもしっかりと立てていきたい。そんなことを考える今日このごろです。