「善いとは何か、正しさとは何か、自由とは何か」

考えれば考えるほど、わからなくなる問いです。

わからないからこそ、自分の頭だけではなく、歴史や偉人など過去の叡智に学ぼうとする。

しかし、その答えは十人十色です。

あっちを立てれば、こっちが立たずと言ったように、知れば知るほど明確な真理なんてものは存在しないのだと絶望するだけでしょう。

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では、このような問いを考え続けることに意味はないのか。

いいえ、決してそんなことはないと僕は思います。

なぜなら、「あの日も今日と変わらず、必死で考え続けていた。その上で選び抜いた決断だった」という確固たる事実だけが、どんな結果であっても、唯一自分の人生に納得感を与えてくれるものだから。

逆に、どれだけ一時的にうまくいったとしても、家族や会社、社会に蔓延する誰かのイデオロギーに染まりきって、それを盲目的に信じ、これこそが真理だと断言していれば、いつか必ず後悔する日が訪れる。

なぜなら「世界は常に変化し続けている」ということだけは、普遍の法則なのだから。

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「善いとは何か、正しさとは何か、自由とは何か」

このような問いに対して、「これが明確な答えだ」というような絶対的な真理には、一生辿り着けません。

その先には「自らで考え続けて、絶望し続ける」という残酷な未来しか待っていない。

あえていえば、この残酷で絶望的な状態に身を置き続けることができる勇気と胆力を持ち続けることが、私の納得感につながっていく。

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しかもさらに厄介なことに、そのような状況に身を置き続けていると、他者には決して勝つことができません。

なぜなら、断言できないからです。常に不確実性に晒された弱い存在であり続けることになる。他者を論破なんてできるわけがない。

できることは、自ら考え抜いて、自ら下した決断に対して、粛々と納得感を持ち続けるのみです。

それが「弱さを引き受ける」ということと、同義でもあると思うのです。

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僕らは、幼いころから何度も「守るものがある人間は強い」というセリフを聞かされ続けて育っています。

しかし、あれはまるっきり嘘なのでしょう。

思想であっても、社会集団であっても、何かを守りたいものがある人間は、必ず弱い存在に成り下がってしまう。

でも、その弱さを受け入れた者こそが、自らの人生に対して納得感を実感し続けることができるのではないでしょうか。

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目の前の出来事に対して、一義的に解釈し、合理的になればなるほど強くなれる、他者に勝つことができる大きなチャンスが訪れる現代において、これはものすごく勇気が必要な行動です。

だからこそ、その弱さを認識したうえで、自ら積極的にその「弱さ」にとどまる勇気を持つ。

常に倫理的に生きようとする人間ほど、そのことについて自覚的であるのだろうなあと。

恥ずかしながら、この歳になってやっと理解することができました。

いつもこのブログを読んでくださっている方々にとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけにつながれば幸いです。

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