僕らは普段、誰かの切り取った写真や映像ばかりを眺めて生きています。

あまりにも、写真と映像が蔓延する世界に慣れ過ぎてしまった結果、

無意識のうちに自分自身も世界を認識する際に、「一体どこにカメラを置くべきなのか」、その「正解」を常に探りながら、他者の視点を模倣をしつつ生きています。

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素人であっても、プロ並みの写真や映像が撮れてしまうようになったことが、それを強く物語っているように思います。

若い子であれば、専門的に学んだわけでもないにもかかわらず、完璧なまでにプロを模倣してしまいますよね。

まさに、門前の小僧が習わぬ経を読んじゃっているわけです。

スマホの普及と、InstagramやYouTubeの浸透は、この10年で私たちにそれぐらい強い影響を与えてきました。

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さて、なぜ突然こんなことを書き始めたのかといえば、

昨夜、Wasei Salon内のオンラインイベントでカズオイシグロさんの『クララとお日さま』の読書会が開催されたからです。

この作品を読んだことがある方は、きっとご存知だと思いますが、この作品は扱っているテーマが非常に多様でかつ多層的。

狭い世界のお話にもかかわらず、この作品の中で、自分が一体どこにカメラを置くか、迷子になっている自分に気づいたのです。

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しかし、他者の世界を認識する際に、視点を置き方というのは本来もっともっと自由でいいはず。

決して一点に固定する必要もなくて、もっと立体的かつ断片的にその空間を把握してみたっていいはずなのです。

でも、僕らはなぜか映画やドラマのソレを模倣するかのように、フィクションの世界であっても「固定したカメラの視点」で切り取ってしまう。

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これは多分、近代における「カメラの功罪」なのだと思います。

それはNHKの『映像の世紀』などを観ていても、とても強く感じるところ。

1940年代、国家によるプロパガンダ映像が、誤った形で国民を扇動し、第二次世界大戦のような悲惨な出来事を招いてしまいました。

1960年代には、ベトナム戦争の映像が世界中のテレビで観られるようになったことで、それに呼応するように各地で同時多発的に学生運動が起きたといいます。

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だからこそ、この無意識のうちに自分の中に存在する、他人のカメラ視点に対して、もっともっと自覚的になりたい。

そして、自己の視点を広げる際に、もっと重層的な含みを持たせてみたい。

いや、もはや「視覚」だけにこだわる必要もないのかもしれません。

世界を認識する方法は、本来もっと多様で複雑なはずなのですから。

温度や湿気、匂いや音、何かわからない気配のようなものに至るまで、ありのままの身体感覚を総動員しながら、他者の世界を想像してみたい。

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各人が一人一台、スマホという高性能なカメラを常に持たされてしまったがゆえに、

「このカメラを使って、世界をどう切り取ろうか」

という切迫感を無意識のうちに抱きながら、僕らは現代を生きているように感じます。

しかし、それに束縛されず、まるで幽霊のように虚空をさまよいながら、飄々と乗り移って、目一杯この世界を体感し直したっていいはずです。

現代を生きる僕らに、意外と足りない視点のように思ったので、今日のブログにも書き残してみました。

いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにも、何かしらの考えるきっかけにつながったら幸いです。

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