先日、audiobook.jp内で中村天風さんの講演音声を聴いていた際に紹介されていた句です。

また、白隠禅師が残されたという句、

「もの持たぬ  たもとは軽し  夕涼み」

こちらも同時に紹介されていて、今も非常に印象に残っています。

このブログを読んでくださっている方々であれば、どちらも「その情景や、その感覚が、自らの身体の中で自然と立ち上がってくるような清々しい句だ」と感じられるのではないでしょうか。

今日はこの句を通じて、多くのひとが誤解してしまっている「道具と私」の関係性について、少し僕の考えを書いてみたいと思います。

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この点、どうしても私たちは環境や道具によって、自らの感覚が左右されると思ってしまいがち。

それは例えば、Aという入力があって、Bという出力がなされると信じているようなものです。

そこに原因と結果のようなもの、その因果関係を勝手に読みとってしまう。

だからこそ、様々な「B」という出力を求めて、「A」という環境や道具を追い求めて、ひたすら物質的に豊かになろうとするのでしょう。

でも、本当の目的は、この「B」という状態にある。つまり、自らが清々しい気持ちに達することなのではないでしょうか。

あくまでも道具や環境とは、自分にとって本当に「心地良い状態とは何か」を探るために用いる、文字通り補助的な「道具」に過ぎないはずなのです。

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だからこそ、本当に重要なことは、何度かその体験を繰り返していくうちに、その境地に自在に入れることなのではないかと思うのです。

最近であれば、サウナと水風呂の交互浴を繰り返して「ととのう」という感覚だってきっとそう。

あれも本人の主観的な感覚に過ぎないのだから、本来はその境地にサウナなしで到達できてもおかしくないはずです。

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もっとわかりやすい例を用いれば、道具や環境というのは「そろばん」みたいなものなのかもしれません。

暗算の達人は、何度も何度もそろばんを使い込んでいくうちに、まるで自分の頭の中にそろばんがあって、それを頭の中で弾いているような感覚になると言います。

そして、目の前の暗算の答えに辿り着くために、そろばんが必要なくなる瞬間がやってくる。

また、自らを感動させてくれた音楽なんかもそう。

何度も繰り返し聴いた音楽であれば、その音楽を聴かなくても、そのワンフレーズを自ら口ずさむだけで、その音楽を初めて聴いたときの感動が体内で蘇ってくるはずです。

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なによりも、先に示した「句」それ自体がまさにそうですよね。

この文字列を暗誦するだけで、なんとも清々しい気持ちが私たちの身体の中を駆け巡る。

「ああ、そうだった、この周波数に心を合わせに行こう」と自然に思えるはずで。

このように、私たちが本当に目指すべきは、いつでもその状態に入れること。

自分にとって「明鏡止水」のような境地を、さまざまな道具や体験を通じて、心と身体で体感してみて、あとはそれを愚直に再現してみる。

そして「ああ、これだ」と思ったら、その状態にいつでも入れるように訓練していくこと。

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どうしても僕らは、豊かになって道具を揃えて、最適な環境をつくりだし、その豊かさの恩恵を受け続ける状態にあることが人生のゴールだと思いがち。

でも、それは補助輪をつけた自転車を買ってもらって「自転車に乗れた!」と喜んでいる子供と同じなのかもしれません。

その補助輪が外せるようになることが、本当の意味で自在に自転車に乗れている状態。

だとすればそれと同様に、その清々しい気持ち(多幸感)をいつでも自由自在に感じられること、その周波数に自ら合わせられるようになりたい。

そう考えると、まだまだ人生道半ばです。

今日のお話がいつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。