最近、なぜ人々は似たような過ちを繰り返し続けてしまうのか、にとても興味があります。

さまざまな書籍を読みながら、いま暫定的に思うことは、自分が、そして社会が良かれと思ってやっていることがその過ちを再生産することに寄与してしまっているからなのだろうなと思います。

ひとりひとりの強い正義感や愛国心、その時代における善良な市民の真っ当な意見の集まりが、逆に同じような過ちを引き起こす真の原因となってしまっている。

それは100年以上前からずっと変わらないことであり、ミルの『自由論』の中にも、似たような記述はいくつも発見することができました。


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それはまるで「子供の健全な成長発展のため」と思って、感情に任せて叱る教師や親が、実際のところは全くその効果を得られていないことと、とてもよく似ている構造だなと思います。

だからこそ、直接的な因果関係だけを捉えて、短絡的なアクションを実行し続けてしまわないこと。

それよりも、本質的に何が問題なのかを、もっと長期的な視点で見定めてみる必要がある。

どんな環境の変化や社会の変化が、この似たような結果をもたらしてしまっているのかを、もう少し多角的な視点から考えてみる。

歴史の中にはそのヒントがたくさん存在しますし、その歴史からすでに多くの先人たちが、丁寧に考えてくれている。

目の前のニュースに対してのみ、日々感情的に反応し続けるのではなく、そちらの考察にしっかりと目と耳と心を向けていきたい。

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何かセンセーショナルなことが起きれば、絶対に目の前の出来事の「表面的な良し悪し」だけを語らされることになってしまうのは、ある意味で仕方のないことだとも思います。

自分で言葉を選んでいるように感じているだけで、本当は社会の風潮に選ばされているだけの言葉なのだと思います。

大きな自然災害のあとには、兎にも角にも有無を言わさず「復興」が良しとされるように。

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同じように、その時代の道徳観や倫理観によって、その考え方に反する人間が死罪とされてきたことが良かったかどうかも、その瞬間にはわからない。

ソクラテスもキリストも、日本だったら千利休も西郷隆盛も、本当に殺されるべき人間だったのかどうかはわかりません。

でも、間違いなく言えることは、同時代に生きていたとしたら、絶対にその決定に対して反対なんかできなかったはずだということです。

だとすれば、僕らができることは、その歴史の過ちから学ぶしかない。そして、同じ過ちを繰り返さないこと。

今とても大切なことだと僕は思います。

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