コロナ以降、自分自身が人文科学の分野に強く興味を持つようになった中で、ひとつ疑問に思ったことがあります。

なぜこの日本で一時期急激に「教養文化ブーム」が勃興し、そして今は跡形もなく消え去ってしまったのか。

今日はその答えとなるような部分の話を最近読んだ『「勤労青年」の教養文化史』から紹介しつつ、これからの未来についても少し考えてみたいと思います。

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早速、本書の中からズバリ回答してくれている該当部分を引用してみましょう。

ー引用開始ー

かつては格差に喘ぐ状況が、ときに教養への憧れをかき立てていた。進学の望みが断たれても、読書を通して教養を身につけ、人格を高めなければならない。学歴取得や就職のための勉強ではなく、実利を超越した「真実」を模索したい。

そうした価値観は、青年団や青年学級、定時制に集ったり、人生雑誌を手にする「就職組」の青年たちに広く見られた。そのゆえに彼らは、日常の仕事には直結しない文学・哲学や時事問題などに関心を抱いた。

また、生活を取り巻く格差や劣悪な就労状況を起点に、労働問題や経済・福祉、反戦平和など、社会科学方面の論説にもしばしばふれていた。その意味で、彼らは単に格差に圧せられていただけの受動的な存在だったわけではなかった。

ー引用終了ー

これを読んで僕が意外だなあと感じたのは、自分が置かれている状況を克服したいと腹の底から願ったときに初めて、人々は実利を超越した「真実」を模索するようになるということ。

生活に余裕が生まれ、学ぶ時間が生まれた時ではなく、むしろ生活に余裕がないときほど、哲学や文学から「真実」を探し出そうとするのだと。

これがわかっただけでも、この本を読んだ価値がありました。

そして、このあと高度経済成長の時代がやってきて、格差が徐々に解消され、会社の労働条件や労働環境が良くなったことによって、逆に教養文化はドンドン衰退していったようなのです。

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この本をよみながら、この流れは「明治維新」のタイミングともなんだか似ているなあと感じました。

江戸幕府の官僚主義が極まっていた時代に、当時の格差社会における底辺にいた下級武士たちが陽明学などの思想を必死で学び、その格差を克服しようとしていたのが、1868年ごろ。

その後、時代は進み、大正デモクラシーの時期が来て、大戦景気に沸き、またエリートたちの暴走で第二次世界大戦に突入し、1945年に敗戦する。

この間が約80年間です。

だとすれば、いま徐々に「格差社会」という言葉が蔓延してきている中で、

東京オリンピックやコロナ騒動などの政治や官僚のいざこざなんか見てみても、なんだか当時のソレに近いものを強く感じさせます。

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今年が戦後76年だと考えると、あと10年以内には、努力では如何ともしがたい格差社会がまた生まれてくる可能性はあり、何かしらの大きな社会変革が起きる可能性は十分にありそう。

その潮流に合わせて、また少しずつ教養文化ブームも復権してくるのかもしれません。

そのための萌芽のようなものが、いま徐々に芽生え始めてきているのかなと感じています。

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さて、さらに当時の時代背景やその気運を知るために、本書の中で何度も繰り返し言及されていた、吉永小百合さん主演の映画『キューポラの街』も、実際に観てみたいと思います。
いつもこのブログ読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの考えるきっかけとなったら幸いです。

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