選挙が近くなると、必ず聞こえてくる「若いひとも選挙に行って、自分たちに有利になる政策に票を入れよう!」という意見。
さもないと、ドンドン若者に不利な社会になっていくよ、と。
僕はいつもこの言葉を聞くときに強い違和感を感じてしまいます。
そのような行動原理のもとに各人が投票してきた結果が、まさに「今」なのではないかと。
マジョリティの人間が「自分(たち)に有利な選択」をし続けたら、常にマジョリティが有利になるのは至極当たり前の話なんです。
そして、現代の60代以上の年長者の方々は、そうやって票を入れることが「正しい国民の姿」と教え込まれて育てられてきたからこそ、今この瞬間も、臆面もなく自分たちに有利になる政策にせっせと票を入れ続けています。
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現状維持をしていれば、自分達にとって有利という場合においては、積極的に何かを変えていこうとは思わなくなるのは当然のことです。
それは、決して責められるような話ではない。
サッカーの試合の中で、このまま時間が過ぎてくれれば、自分たちの勝利が確定する瞬間に、自陣営でボールキープをするのと同じ。
そのボールキープする姿がどれだけスポーツマンシップに反する行為だとしても、ルール的には全く問題ないですし、「勝つことに執着することが大事」だと教え込まれた世代にとっては至極当たりまえの挙動だと思います。
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だから、僕が思うのは、自分に有利な政策を掲げている政党に票を入れる発想自体がもう完全に間違っている。
選挙に限らず、仕事でも生活でもどんな場面においてもそうだと思います。
確かに、各人が自分の利益を最大限にしようと努力することによって、「神の見えざる手」のような機能が働いて、結果的に国家全体が急速に発展していく時代も確かにありました。それぐらい「資本主義」と「民主主義」のコンボは強烈だったのです。
しかし、それによって行き着くところまで行き着いてしまったからこそ、自分たちの利益を手放してでも、マイノリティのひとたちのために、もしくは地球環境のために、「利他的」な行動をしようという若者たちが増えているのだと思います。
そのときに「若い人たちがもっとちゃんと選挙に行って、自分たちにとって有利になる政策に票を入れないとダメだよ!」という忠告は、完全に視点がずれているし、元の木阿弥だよなと思ってしまうわけです。
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そのような観点で、選挙に行くようになった若者たちは、自分たちが中年世代になって権力を持ってきたときに、必ず下の世代に対して同じことをするだけです。
中学や高校の部活動で1年生の時に散々絞られたから、自分たちも3年生になったら後輩をこき使おうと考えるのと同じ話。
誰かが、どこかのタイミングで「自分(たち)にとっては確実に不利な選択だけれど、長いスパンで捉えたときには、同じコミュニティに属する同胞たち全員に対して有利に働く」という理由で、自分たちの利益を放棄して、不利な施策を能動的に選択しなければならない。
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じゃあ具体的には、どんな基準で選べば良いのか。
この点、『いのちの政治学 リーダーは「コトバ」をもっている』という本の中で、若松英輔さんがおっしゃっている基準は、非常に明快でわかりやすいので、少し引用してみます。
現代の選挙って、自分にもっとも大きな利益をもたらしてくれる人に入れるというのが一般的ですし、政治家も選挙運動の中でそう訴えますよね。でも本来は、今一番苦しんでいる人たちにとってもっとも善き政治を行うのは誰なのかということを考えるべきなのではないでしょうか。
自分の生活が多少苦しくなったとしても、今非常に苦しんでいる人たちには人間らしい生活が戻ってくる、それを実現してくれる政治家にこそ、一票を投じる。私たちの選挙行動がそういうふうに変わっていかない限り、社会はなかなか変わらないと感じます。
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僕は「自分の生活が多少苦しくなったとしても」という基準までは求めないほうが良いと思っています。
なぜなら、それだと宗教的な発想になってしまうから。全員に納得感を持って選んでもらえる方法ではなくなってしまう。
ただし「自分にもっとも大きな利益をもたらしてくれるひとではなく、今一番苦しんでいるひとたちにとってもっとも善き政治を行うのは誰なのかという基準で選ぶ」ことには、とても賛成です。
各人がこの基準で行動した場合、私一人が他者を出し抜いて「大富豪」になることはできなくなってしまうかもしれないけれど、全員が「生きる」には困らない状況は必ず生まれてくるはずです。
なぜなら、常に一番苦しんでいるひとたちが一番最初に救われるような政策や意思決定が国家全体で行われるようになるわけだから。
そうすれば、全員が安心して暮らす社会がきっと到来する。失敗を過度に恐れる必要もなくなり、ひとりひとりが本当に自分のやりたいことに全力で集中することができるようになる。
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これは政治に限らず、自分がどこかの企業で働く場合であっても同じです。
もちろん、自分が何か商品を買う場合であっても、それを広義の「投票行動」と捉えた場合には、同じ行動原理で商品を選ぶことで、その「価値観」が広く浸透し、世界は確実にもっともっと安心して過ごすことができる場所になっていく。
そのときに必要なことは、自分一人だけ(自分たちの世代や、自分たちの一族だけ)出し抜いてやろうという魂胆を完全に捨て去ることだと思います。
いつもこのブログを読んでくださっているみなさんにとっても、今日のお話が何かしらの参考となったら幸いです。